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.政治  投稿日:2020/3/19

令和の朝日新聞大研究 5 自分が嫌いな相手はみな悪魔


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・首相を脱獄犯やヒトラーに重ね、日本を中国と同じ独裁と断じる。

・無関係な過去の負を持ち出し、敵に重ねて「悪」のレッテルを貼る。

・朝日新聞第三の特徴は「悪魔化」の拡大。恥ずべき病んだ発想。

 

朝日新聞のヘイトスピーチ傾向はもちろん他にもある。たとえば、やや古くはなるが、2018年10月8日朝刊の記事だった。

ここでは民主的に選ばれた日本の首相を強盗致傷、強制性交罪、窃盗罪の犯罪容疑者に重ねていた。当時、全日本を騒がせた樋田淳也容疑者である。同容疑者は窃盗容疑などで大阪府警富田林署に逮捕され。拘束されている間に同年8月12日に脱走して、行方をくらました。

樋田容疑者はたくみに姿を消していたが、9月29日、山口県内で捕まった。48日間もの逃走だった。同容疑者は脱走してから盗んだ自転車で日本一周の旅をするような偽装をしていたという。

▲写真 脱走事件があった大阪府警富田林警察署 出典:田英

朝日新聞が安倍首相をこんな脱走犯人に重ねているのには、呆れ果てた。その記事の筆者もまた高橋純子記者だった。「政治断簡」と題される同じコラム記事である。

記事の見出しは「逃走中なのか 挑戦中なのか」だった。

このコラムの冒頭をまず紹介しよう。

 ≪見るともなくつけていたテレビから「『逃走中』を『挑戦中』と偽り……」と聞こえてきた。はて何事かと目をやると、画面には警察署から逃走して盗んだ自転車で「日本一周」していたとされる容疑者の笑顔、別人としての人生を謳歌(おうか)していたに違いない充実の笑顔が映しだされていた。逃げているのか。挑んでいるのか。その境目は実はさほど明確なわけではなく、何かから逃げている人は、何かに挑んでいる人として在ることも可能だということなのだろう。逃げるには挑むしかない――≫

この部分からすでに異様である。

脱走した犯罪容疑者、しかも強盗や窃盗や強制性交、さらには逃亡による加重逃走罪という容疑を重ねてきた脱走犯を「人生を謳歌」「充実の笑顔」などと、まるでヒーロー扱いなのだ。法を破って脱走する行動を「何かに挑む人」として礼賛のように表現する。

だがこのコラム記事が「真価」を発揮するのは以下の記述からである。逃走犯のことを以上のように持ち上げたうえで、いきなり次の文章につなげていったのだ。

 ≪おや、いつの間にか私は安倍政権の話をし始めてしまっていたようだ≫

つまり冒頭の部分で逃走犯のことを述べているようにみえて、実は安倍政権の話しをしていた、というのである。安倍政権というより、安倍晋三首相を樋口容疑者にぴったりと結びつけているのだ。

日本の国民が民主的な手続きで選ぶ政府の長が犯罪者と同じだというのだ。その連結を支えるのは安倍首相への憎しみ、つまりはヘイトだろう。

しかしこんな飛躍した連結を仮にも公器とされる新聞に書くにはふつうならなんらかの根拠らしい事実の提示が必要だろう。

だが根拠らしい事実の記述はなにもなかった。高橋記者の情緒的な感情の羅列だけだった。要するに首相と犯罪容疑者をあえて重ね、結びつけ、同類項扱いすることの客観的な根拠も理由もゼロなのである。ただ浮かんでくるのは憎悪だった。

同コラムの残りも、ほぼすべて安倍首相と安倍政権に浴びせる悪口だった。次のような言辞が並んでいた。

 ≪ブレーキを踏まない≫

 ≪説明責任を果たすことから逃げ―≫

 ≪悪路であえてエンジンをふかす≫

 ≪自らを挑戦者のごとく演出するのがうまい≫

 ≪勝手に走り出したことを棚に上げて≫

とにかく安倍首相をののしりたいという嫌悪だけがあらわで、意味の不明な言葉ばかりだった。

だが安倍首相と逃走犯人とどんな共通項があるのだろう。逃げているのか、挑んでいるのか、高橋記者にとってはわからないという点がどうも共通項らしい。

だが逃走犯の行動は最初から最後まで犯罪行為だったのに対して、安倍首相の行動はかりにも日本国の首相としての義務や権利の結果なのだ。この二つのまったく次元の異なる行動と、異なる人間とを結びつける発想はまともではない。ヘイトに基づくスピーチとみなさざるをえない。

朝日新聞は安倍攻撃にありとあらゆる手を使い、その打倒は失敗に終わってきた。そのあげくに、こんな支離滅裂の記事を載せることは、なにか自暴自棄人間のふてくされた言動とも思えてくるのだった。

さて第三の朝日新聞の最近の特徴は「悪魔化」の拡大である。

悪魔化とは自分たちの敵を実際とは異なる邪悪の存在に描いて叩くという手法である。そのためにはすでに邪悪と断定された過去の他の存在を現在の敵に重ねあわせる

朝日新聞はそのためによくヒトラーやナチスを借用する。ナチス・ドイツの行動や人物の悪の言動を引き出してきて、現在の朝日の敵に重ねて、「ヒトラーと同じような悪」と断ずるのだ。そのヒトラーが日本の戦前の軍国主義者となる場合もよくある。

▲写真 オーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラー(1938年10月 エゲル)。朝日新聞は自らの敵を「ヒトラーやナチス」に重ねる「悪魔化」の手法で断ずる。出典:ドイツ連邦公文書館 / Bundesarchiv, Bild 137-004055 / CC-BY-SA 3.0

卑近な実例では1月11日朝刊の長文の社説ではゴリラまでが自説の支えの悪魔化に使われていた。《東京五輪の年に旗を振る、って何だろう》という見出しの社説だった。

その趣旨は回りくどい文章なので、きわめて難解だが、日本の旭日旗を東京五輪で禁止すべきだという韓国の主張への支援が核心と受け取れる。さらには国旗という概念にまで批判を表明していた。そしてその社説のなかでは国旗を振ること自体を愚かとか危険とみなす反国家のメッセージがちらほらする。

同社説は旗を振る行為を悪魔化するためにゴリラを使っているのだからお笑いだった。

 《人類に代わって猿が支配する世界を描いたSF映画「続・猿の惑星」(1970年)には2種類の旗が登場する。ゴリラの兵たちが行軍で掲げるピンクと黒の旗と、平和デモをするチンパンジーたちが手にしていた白い旗だ。ゴリラの将軍が叫ぶ。「我々軍人の聖なる義務は武力でかの地を占領し、我々の旗を掲げることだ」》

この記述の意図は明白である。旗を掲げること自体が「武力でかの地を占領する」ためだというのだ。しかもその当事者はゴリラなのだという。日本の旭日旗をフィクションのSF映画に登場するゴリラ集団の旗に重ねあわせる悪魔化だといえる。悪魔化でなければ、まさにゴリラ化である。ゴリラを自分たちの主張の支えにするという手法でもあった。

目先のテーマを論じる際に、その主題とは無関係な過去のネガティブな事物を持ち出してきて、自分の反対する相手に重ねて悪のレッテルを貼るという朝日新聞の悪魔化手法は実に頻繁である。2019年12月25日朝刊の多事泰論というコラムでも見受けられた。

編集委員の駒野剛記者によるこのコラム記事は《戦死者と権力者慰霊 歴史から目をそらすな》という見出しだった。内容は長野県の護国神社の崇敬会会長に長野県の現職知事の阿部守一氏が就任したことへの批判だった。

同記事は現在の日本で県知事が日本の戦死者の霊を祀る護国神社の崇敬者代表になることの是非を論じる形をとりながら、実は反対論を展開していた。そしてその反対論の武器として一気に90年近くも前の満州事変を持ち出していた。

1931年の満州事変を契機に日本からの「満州開拓団」が中国大陸に渡った。長野県からも「満州愛国信濃村建設委員」が選ばれ、県知事が委員長になったという。

そのうえで駒野記者は以下のように書いていた。

 《信濃村は頓挫する。(中略)旧ソ連が突如参戦してソ満国境を越えてから未曾有の悲劇が始まる。開拓団の男は根こそぎ召集され、残った女、子ども、老人らは逃避行を迫られる。ソ連軍などの襲撃、前途を諦めての自決、伝染病などで長野県に生還できたのは約1万7千人、約1万6千人が亡くなるなど未帰還だった》

という記述の後にすぐ以下の文章が続く。

 《首相や知事という、戦を始めたり、外地に人を送り込んだりした権力者に連なる人たちが「私人」を盾に、政治利用なり広告塔まがいのことをするのはあまりに歴史を甘く見ていないか》

だから2019年のいま、県知事が地元の護国神社の信徒代表になってはいけないと主張するのだ。満州でのソ連軍の暴行による長野県民の悲劇があたかも長野県知事の責任だったかのような「悪魔化」の牽強付会である。

朝日新聞の令和時代の悪魔化手法は山のような実例がある。

2019年6月4日は中国の天安門事件の30周年記念の日だった。中国人民解放軍が多数の中国人民を殺戮したあの事件は全世界の非難を受けた。

アメリカの首都ワシントンでも中国共産党政権に対するその非難は頻繁に表明されてきた。30周年の記念日にはとくにトランプ政権も再度、中国への非難声明を出して、事件の真相を公表することを改めて求めた。

日本の各メディアでも天安門事件から30年の回顧報道が盛んだった。だが欧米諸国や香港、台湾のメディアにくらべると、その非難の度合いはずっと低かった。日本の政府も天安門事件に関していまの中国政府に正面から抗議をぶつけるようなことはしていない。日本こそ人権意識が希薄なのだといわれても反論できないだろう。

そんな日本のメディアのなかでびっくりするような記述があった。朝日新聞6月4日夕刊一面の「素粒子」というコラムだった。

以下のような記述だった。

 《歴史は消せない。忘れたい過去にも向き合ってこそ、国家の歩みは正統性をもつ。中国・天安門事件から30年。

               ◎

日本も胸を張れぬ。首相の面談記録を官邸が作っていない。検証不能、歴史と未来に責任を持たぬ非民主的国家。》

さて以上の文章をふつうに読めば、中国も日本も同じ非民主的国家だと非難し、揶揄していることは明白である。これも朝日新聞の安倍政権の悪魔化レトリックだった。

天安門広場で自国民の民主化運動を武力で弾圧し、一般の国民を大量に殺す。しかもその非を認めず、悪いのは非武装の自国民だったと断じる。そして弾圧や殺戮の事実を否定し、一切の記録を消してしまう。さらには国内でその弾圧を提起する自国民をまたさらに弾圧する。

これが中国政府の言動である。それに対して朝日新聞は「日本も胸を張れぬ」というのだ。なぜなら「首相の面談記録を官邸が作っていない」からだという。この手続き上の一事をもって、日本政府も中国政府と同じ独裁の非民主的国家だと断じているのだ。これぞ日本政府の悪魔化である。

 

▲写真 日中首脳会談(2018年10月26日 北京)。日本政府を中国政府と同じ独裁で非民主的国家と断じるのは朝日新聞の「悪魔化」手法の一例。出典:首相官邸ホームページ

冗談ではない。日本は立派な民主主義国家である。国民には政権を批判する自由がある。政府の長の悪口雑言を述べて、その辞任を求める自由がある。政権与党に各野党が挑戦する自由がある。そもそも一般国民が選挙で政府を選ぶ自由がある。

一方、中国の共産党政権は日本では自明の人間の基本的な自由を認めていない。国民を無差別に殺しても責任を問われない。問おうとする国民を抹殺してしまう。そんな邪悪な独裁体制の露骨な症状が天安門事件だった。

だが朝日新聞は日本に総理の面談記録がないから、わが日本はこの非道な弾圧国家の中国と同じなのだという。日本は歴史と未来に責任を持てないのだという。

なにをかいわんや、である。こんな病んだ発想をして、自分の国を貶める人たちが自分と同じ日本の新聞記者だとか、ジャーナリストだと称していることを恥ずかしく思ってしまう。

(6につづく

 

**この連載は月刊雑誌WILLの2020年3月号に掲載された古森義久氏の「朝日新聞という病」という題の論文を一部、加筆、修正した記事です。

トップ写真:朝日新聞東京本社 出典:Kakidai


この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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