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.国際  投稿日:2020/4/19

人類と感染症6 スペイン風邪、サンフランシスコ市のマスク条例


出町譲(経済ジャーナリスト・作家)

 

【まとめ】

・スペイン風邪流行の際にサンフランシスコはマスク着用条例を制定

・サンフランシスコ市のスペイン風邪の終息宣言

・感染者数が落ち着いた後も警戒するべき

 

スパイン風邪は1918年秋に「第一波」が起き、本格的に流行した。当時の人々はなすすべはなかったのか。なぜ、これほどまでに犠牲者を出したのか。アメリカ人学者、アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(藤原書店)などを紐解き、当時のアメリカを活写したい。

 

スペイン風邪を強力に封じ込めようとした西海岸の都市があった。サンフランシスコだ。いち早く、マスク着用条例を制定した。今回の新型コロナ対策として、神奈川県大和市が全国初のマスク着用条例を制定したが、すでに100年ほど前に実施していた。

 

1918年10月の条例では、マスクの着用を義務付けた。対象となるのは、公共の場や街頭に出歩く市民だ。食事するとき以外、マスクで鼻と顔を隠すこととしている。例外は、家族が家の中にいるときだけだ。客に接する商店などの従業員はもちろん対象となっている。

 

サンフランシスコ市は新聞に一面広告を掲載し、「マスクをつけて自分の命を守ろう!」「ガーゼマスクはインフルエンザ予防に99%有効です」などと市民に呼び掛けた。警察も出動した強制力を伴ったものだ。

サンフランシスコ市赤十字社は、1個10セントでマスクを販売した。マスクは、赤十字自ら半分つくり、残りは、ジーンズメーカー、リーバイ・ストラウスが製造した。同社は、サンフランシスコの市民全員分のマスクをいつでも作れるように準備していた。当時もまた、民間企業が手伝った。

写真)マスクを販売する赤十字女性職員

出典)Calofornia State Library (Photo by  Dobbin, Hamilton Henry)

 

 

街の風景は一変した。市民はマスクを着用した。タバコ屋では、葉巻や紙たばこの売り上げは50%も落ち込んだ。マスクをしたままでは、売れないからだ。

 

市の責任者は「サンシランシスコ市民は絶対に2カ月間はマスク着用を続けるべきだと考える」と語っていた。さらに、学校は休校になり、娯楽施設に対しては閉鎖命令が出た。町は静まり返ったが、感染封じ込めが最優先された。

 

ただ、マスク着用に反対する意見も根強かった。商店の人々は「店員がマスクをしていたら、客が怖がって購買意欲を失う」と主張した。「マスクの着用を許せば、ワクチン接種の強制、人体実験なども許すようになる」と反対する人もいた。マスクの着用は、「歌手から歌う権利を奪う」という意見まで飛び出した。

 

こうした反対論を押し切って、つくられたマスク条例だが、11月に入って「逆風」が吹いた。きっかけは、スペイン風邪の患者数だ。10月後半に週当たり8682だったのが、11月の最終週では57と急減した。サンフランシスコ市は11月21日、マスク条例を解除した。マスク反対派の意見に押し切られた格好だ。 

 

この日は、第一次世界大戦で、連合国側が勝利したタイミングだった。人々は大戦が終わり、マスクの着用からも解除され、安堵していた。11月第四木曜日の感謝祭は、例年以上に、沸いた。公立学校も再開された。サンフランシスコ市はスペイン風邪の終息を宣言した。しかし、それもつかの間だった。患者数が再び、静かに上昇し始めたのだ。

 

サンフランシスコ市は慌てて、マスクの着用を再び呼びかけた。マスク着用を再び義務付けるかどうか。それが政治テーマとなった。反対する人たちは「反マスク同盟」をつくった。

 

サンフランシスコ市は揺れた。いったんはマスク再着用に動いたものの、その後、市長はマスクを外してもいいという声明を出した。染拡大防止か、経済か。今と同じテーマに、サンフランシスコ市は右往左往し、結局、感染拡大を止めることができなかった。

 

あおりを食ったのは市民だ。18年9月から翌年1月までの間に、5万人を超す市民が感染し、3500人が亡くなった。そのうち3分の2は、20代から40代の人だった。

 

新型コロナに揺れる今、100年前のマスク条例は多くの教訓を秘めている。数字が少し落ち着いたからといって、警戒を解けば、ウイルスは牙をむく。目に見えない“敵”は強力だ。歴史上おびただしい数の人間を殺してきたウイルスを甘くみてはいけない。ウイルス退治のためには、ぶれない行動することこそが、重要だ。毅然たる政治のリーダーシップが問われている。

 

(続く)

 

 

トップ写真)マスクを着ける男性

出典)OpenSFHistory

 

 

 

 


この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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