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.国際  投稿日:2020/4/19

人類と感染症5 スペイン風邪、突然変異で狂暴化


出町譲(経済ジャーナリスト・作家)

【まとめ】

スペイン風邪、ウイルスの突然変異で1918年夏、本格的な流行「第一波」起きる。

・ウイルスはヨーロッパからアメリカに伝わり、軍人から民間人に伝染。

・ドイツ軍がウイルスをばらまいた等のデマも拡散された。

 

スペイン風邪は1918年春に「前触れ」を見せたが、いったん、収束した。狂暴化して人類を襲い掛かったのは、この年の夏場だ。本格的な流行となる「第一波」が起きる。きっかけは、ウイルスの突然変異だ。

慶応大学名誉教授の速水融の労作『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)によれば、世界の艦船が出入りするフランスやアフリカなどの港町で突然変異が起きた。1人、もしくは少数の感染者が出て、世界に散らばったというのだ。

変異するウイルスの恐ろしさは、速水の言葉に象徴される。「変異することによって非常に高い感染力を持つようになり、多くの人が罹患し、またたく間に世界中に散らばったものと思われる。そして誰もコントロールできない状況になった」。

世界中に散らばったウイルスはどこに散らばったのか。最初に確認されたのは、ニューヨークの港だった。

18年8月12日、ニューヨークの港にノルウェーの船が到着した。200人ものインフルエンザ患者が乗っていた。このうち3人は洋上で亡くなっている。船が港に着いた後、感染した乗客は病院に運ばれたが、隔離病棟ではなかった。病院ではほかの入院患者に、感染した。これが、スペイン風邪「第一波」の最初の記録となる。

さらにヨーロッパから船が続々、アメリカ東海岸の港に着いたが、多くのスペイン風邪の感染者が乗っていた。

その後、スペイン風邪は猛威を振るう。9月半ばに爆発的な流行があったのは、ボストン近郊にある基地だった。兵士の20%が感染し、月末までに数千人の患者が病院に殺到した。医師や看護師が対応に追われ、ついに自ら感染してしまった。患者は病院に運ばれると、見たことのないような悪性の肺炎を発症した。この基地では兵士が一日に100人死んでいった。棺桶もなく、遺体は放置された。

▲写真 Volunteer nurses from The American red cross during flu epidemic (1918) 出典:rawpixel (Original:Oakland Public Library)

史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)は、「軍はかなりの割合で市民の間のインフルエンザの流行の出発点となっていた。国民を守るはずの人間たちが、今や国民への重大な脅威の源になっているという見方は、軍隊に怖れを抱く民間人に共通するものだった」(P75)と指摘している。

ボストンではすぐに市民に流行した。当時は第一次世界大戦のさ中だ。愛国心を鼓舞するパレードに多くの兵士や市民が参加。お互いに咳やくしゃみをしながら、まん延した。

スペイン風邪は瞬く間に、軍関係者から市民に広がった。とりわけ、陸軍の兵士は、アメリカ内陸部にいて、全米の各地にインフルエンザを運んでいた。全米に敷かれた鉄道網が、流行を後押しした。

感染は、ボストンで始まり、東海岸の都市に広がり、次第に西に向かった。2週間ほどで西海岸に到着した。

流行が深刻だったのは、田舎よりも都市部だった。アメリカの都市部では、田舎や、海外の貧しい国から人々が移住していた。彼らは公衆衛生の知識が乏しかった。密集して暮らす人々の間で、感染は一気に広まった。

当時はデマも流された。ドイツ軍のスパイがアメリカの劇場などでスペイン風邪の病原体をまき散らしたというのだ。アメリカのメディアもこの話に飛びつき、一面に記事を掲載する新聞も現れた。戦争とパンデミックがまじりあい、狂気の時代だった。

2波にわたって、人類を脅かしたスペイン風邪。なぜこれほどまでに感染が拡大したのか。そして人々は何も手を打たなかったのか。次回は、そうした側面に焦点を当て、お伝えしたい。

(続く)

トップ写真:U.S. Army Camp Hospital No. 45, Aix-Les-Bains, France, Influenza Ward No. 1. Influenza pandemic ward during World War I.(2018)出典:U.S.Army


この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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