感染症と人類10 松井須磨子と与謝野晶子の警告
出町譲(経済ジャーナリスト・作家)
【まとめ】
・スペイン風邪でも著名人の死で国民の間に危機感が広がった。
・家庭内感染した与謝野晶子は、学校や工場閉鎖しない政府を批判。
・新型コロナに翻弄される我々は100年前の教訓生かしているか。
今回の新型コロナウイルスの流行で、節目となったのは、志村けんの死去だ。お茶の間でなじみの顔だけに、国民の間で危機感が一気に高まった。海外メディアも「日本の喜劇王死去」と大きく伝えた。
100年前のスペイン風邪でも、2人の著名な男女に悲劇が起きた。劇作家の島村抱月と女優の松井須磨子である。島村抱月がスペイン風邪で死去し、2カ月後に、松井須磨子が後追い自殺した。国民はスペイン風邪の恐ろしさを知った。当時の新聞では、この2人の話題で持ちきりだった。2人は最も有名な不倫カップルだったからだ。
島村抱月は、著名な劇作家。結婚していたが、自らが育てた女優、松井須磨子と恋に落ちた。妻子や早稲田大学教授の地位を捨て、同棲するようになった。
▲写真 島村抱月(1871〜1918)
出典:国立国会図書館(パブリック・ドメイン)
一方、須磨子は、島村が手掛けた舞台で人気が沸騰した。特に注目を浴びたのは、トルストイの小説をもとに島村が舞台化した『復活』だ。そこで、須磨子が歌う「カチューシャの唄」が、大人気となった。レコードが発売され、累計で2万枚売れた。日本で初めてのヒット曲と言われる。さらに、須磨子は、日本で初めて整形手術をした女優として知れている。
▲写真 松井須磨子(1886 – 1919)
出典:国立国会図書館(パブリック・ドメイン)
スペイン風邪に最初に感染したのは、須磨子だ。1918年、大正7年10月末のことだった。島村は、熱にうなされる須磨子を看病し、感染したのだ。10月29日のことだった。
須磨子は徐々に回復したが、島村は、呼吸が困難となった。翌30日の様子が記録されている。「島村先生は須磨子と共に流行性感冒に苦しめられている。少し心臓が弱いので、島村先生は呼吸困難を感じられている由だ。医者を呼んで診てもらったそうだ。須磨子はかなりよくなったようだ」(島村の弟子の秋田雨雀の日記)
呼吸困難というのは、今の新型コロナの重症患者に診られる症状だ。感染してからわずか1日で、急変したのだ。
症状が良くなった須磨子は、明治座で舞台のけいこをした。一方、島村は深刻な状況が続いた。11月4日朝、病状が急によくなり、おかゆを食べた。「気分がよい」と周囲と元気に話すまでになったが、夜に再び発熱した。何度も、たんを吐き、急性肺炎を併発して、死去した。日付をまたぎ、5日午前2時だった。そばにいたのは、主治医と看護婦だけだった。
須磨子は明治座から駆け付けたが、島村の死に目に会えなかった。「私は、先生の手厚い看護を受けたおかげで良くなった。それなのに、先生の病気の際、私は十分に看護できなかった」と悔やんだ。不倫とはいえ、「家の中での感染」だったのだ。
▲画像 スペイン風邪流行当時、旧内務省が作成した政府広報ポスター。家庭内感染を避けるよう呼びかけている。
出典:「流行性感冒」内務省衛生局著(1922.3)/国立保健医療科学院 所蔵貴重書
この時期、東京は、スペイン風邪の流行のピークを迎え、多くの人々が感染し、死者数も急増していた。
当時は医療機関も少なく、頻繁に家庭内感染が起きていた。歌人、与謝野晶子の家もそうだった。晶子には11人の子どもがいたが、小学校で1人の子どもが感染したことがきっかけで家族全員に感染した。
▲写真 与謝野晶子
出典:作者不詳
与謝野晶子は、母としてこうした体験を踏まえ、「感冒の床から」と題した論評記事で、政府を徹底批判した。
「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」
「そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同等の事を子供達に注意しているのです」(1918年11月10日付横浜貿易新聞、現在の神奈川新聞)
政府は、学校や工場など閉鎖を命じない一方で、子供たちに混雑する場所に行かないように警告している。学校閉鎖という強硬姿勢を取らず、自主性だけにゆだねた。晶子はそんな政府のやり方に我慢できなかったのだ。緊急事態宣言がなかなか出なかった今の政府を批判しているようだ。
さて今、我々は、新型コロナの対策に翻弄している。100年前に生きていた人々の体験をどこまで生かしているのだろうか。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。我々はもう一度、ビスマルクのこの言葉を思い出す必要がある。
(人類と感染症1、2、3、4、5、6、7、8、9)
▲トップ画像 スペイン風邪流行当時、旧内務省が作成した政府広報ポスター
出典:「流行性感冒」内務省衛生局著(1922.3)/国立保健医療科学院 所蔵貴重書
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。