安全神話が国難招いた(下)日本メルトダウンの予感 その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・原発再稼働訴える人たちは過去から何を学んだのか。
・安全コストを考えれば、原発が安価な電力源だとは言えない。
・「日本の技術」への過信が安全神話を補完した。
福島第一原発事故について、事故の直接の原因は津波であったが、本当に「想定外で防ぎ得なかった」と総括してよいのか。防潮堤ひとつとっても、高さが不十分ではないか、との指摘があったにも関わらず、東京電力は安全対策の強化に乗り出さず、2011年3月11日を迎えてしまった事を、前回紹介させていただいた。
ひとつ補足させていただくと、民間事故調査員会の報告書でも、
「なまじ防災設備の強化工事など行うと、かえって地元住民の不安をあおり、原発反対派を勢いづかせることにもなりかねない」などという、倒錯した論理が働いていたことが示唆されている。
1985年の阪神淡路大震災の直後、当時の科学技術庁長官だった田中真紀子女史が、
「原子力発電所は本当に大丈夫ですか?」
と述べて調査を提案したのだが、これが報道されるや、
「原発反対派が、大臣の発言を誇張してマスコミに流したに過ぎない」
「いや、役人と電力会社が棒組になって懸案を握りつぶしたのだ」
といった不毛な論争が起きてしまい、最終的には当時の村山改造内閣(世にいう自社さ連立)も科学技術庁の事務方の「絶対安全」という主張を支持するに至ったのである。
話を戻して、震災・事故当時は民主党・菅政権(今さらだが、スガでなくカンの方)で、私は今さら当時の政権を擁護する考えはない。そもそも、冒頭で述べた懸念にもかかわらず、稼働を続けていたのは、当の民主党政権なのだ。しかし、再三紹介させていただいている『Fukushima50』という映画での、佐野史郎演じる首相の描かれ方は、いささかひどい。
本社の社長と会長が出張中で、現場に指示が出せないと聞いてブチキレるのにはじまり(それはキレるだろう)、要請されてもいないのに現地に乗り込んだとか、余計なことばかりしやがって、と言わんばかりなのだ。東京電力が独自に取りまとめた調査報告書を参考にして脚本が書かれたのかも知れない。その報告書の中でさえ、会社の首脳陣は事故現場を見捨てて作業員を退避させることばかり考えていたことが明らかにされているのに。
やはりこの事故に関して、最大の責めを負うべきは当事者能力を書いた東京電力であると考えざるを得ないのではないか。
その反省は生かされている、という声もある。たしかに事故後の10年で、原発の安全対策には巨額の費用が投じられ、その費用は高い電気料金という形で国民が負担してきた。また、脱炭素社会を実現するために、中長期的には原発再稼働も視野に入れるべきではないか、との議論に、一定の説得力があることは私も認める。
ただ、以下のようなことも挙げていただきたい。
石炭火力発電を代替する手段は、なにも原発だけではないだろうし、また、原発が抱える問題は事故の恐れだけではない。放射性廃棄物の処理方法が見つからず、世にいう「トイレのないマンション」の問題も、依然として五里霧中の状態ではないか。
最近ではまた、東京電力の管理下にある原子力関連施設で、不法侵入を感知できなかったという不祥事があったが、これなどはテロ対策を抜本的に見直さねばならない案件であろう。
以上を要するに、安全対策のコストまで考えたなら、原発が安価な電力源だなどとはとても言えないのだ。
それでもなお再稼働を主張する人たちは、ここはひとまず冷静になって、安全神話から離れた分かりやすい説明、具体的には原発再稼働で本当に電気料金は引き下げられるのかといった議論を、先に展開すべきではないだろうか。
安全神話の問題はもうひとつあって、それは
「日本人は優秀で、日本の技術は世界最高なのである」
という思い込みから、原発などちゃんとコントロールできると結論づけた人たちの存在である。本誌でも最近、清谷信一氏が国産戦闘機開発の問題にからんで、根拠もなく国産兵器を礼賛するテクノナショナリストの話題に触れていたが、原発でも、似たような傾向があったのだ。
この連載でも一度だけ取り上げたが、毎日万単位の人が見る大手の軍事ブログ(自分でそう吹聴していた笑)の管理人と称する人物が、事故直後にツイッターで、
「メルトダウンなんて起きるわけがない。馬鹿は黙ってろ」
などと発信してメガトン級の自爆を遂げた。どの段階で、どのような情報を根拠としてこうした暴言を吐いたのかを釈明することもなく、未だに自分のことをいっぱしの言論人だと思い込んでいるなどということは、まさかないと思うが(笑)。
今さらそんな話を蒸し返されても……と言われるかも知れないが、問題はこのような、
「日本人はなにをやらせても優秀だ。だから兵器でもなんでも国産に限る」
「原発をなくせというのは反日左翼の論理だ」
といった言辞は俗耳に入りやすく、それが、資本の論理に追従したに過ぎない安全神話を、さらに補完してきたことである。
1974年、国産原子力船「むつ」の試験航海で起きたことをご存じだろうか。
▲写真 海洋地球研究船「みらい」(元原子力船むつ) 出典:oomamusi
地元漁民らの反対をはねのけて強引に出向し、沖合で原子炉が臨界に達したが、同時に、原子炉隔壁から微量の放射能漏れが検知されたのである。
工業製品には「初期欠陥」と言って、設計段階では予測し得なかったトラブルがつきものなのだが、原子力船「むつ」に関しては、設計は完璧だという思い込みがまずあって、常識的な放射線対策さえ準備されていなかった。
そもそもこのトラブルは、隔壁の設計ミスであったことが後日明らかになったのだが、それでも、鉛の薄板で隙間をふさぐ準備さえしておれば、その場は無事に乗り越えられたとされる。
しかし、現実になされたことと言えば、なんと夜食用のおにぎりに、中性子を吸収するホウ酸をまぶして、隙間に埋め込もうというものだった。おまけに最初は、誰も近づきたがらないので(防護服もなかったのだから、当然!)、離れたところから投げつけた。それではうまく行かない(行くか!)からと、ついには「学界カースト」で下位にある若い研究員が、水杯を交わして、おにぎり片手に隔壁に歩み寄ったという。
漫画の話ではない。日本の「優秀な原子力技術者」が現実に、同乗していた報道陣の前でやってのけたことなのだ。
私自身も数年前まで、水杯云々はさすがに一種の都市伝説ではないのか、との疑いを捨てきれずにいたのだが、まさに当日、国家公安委員会を代表して科学技術庁の長官室に詰めていたという佐々淳行氏が2015年にレポートしていたので、あらためて驚き呆れた次第である。
ちなみに、その長官室にも警察にも事故の一報は入らず、TVニュースの方が先であったとか。二重三重に酷い話ではないか。
日本人は、たしかに器用でしかも勤勉だと思う。私は海外生活が比較的長いので、日常生活レベルでそのように感じることがよくあった。
そのことに自信を持つのは悪いことではないが、自信が過信になってはいけない。
危機管理の問題がクリアされないうちに、原発再稼働を主張しても、多くの国民にとっては、
「今までの投資を無駄にしないよう、たとえ新型コロナ禍にまつわるリスクがあろうと、東京五輪は開催すべきだ」
というのと同列の暴論に聞こえるのではないか。
私自身、アスリートたちの五輪にかけた熱意と努力を想えば、なんとか開催して欲しい、との思いをすでに開陳したものだが、安全には代えられない。
原発もコロナ対策も、今度なにかあったら「想定外」では済まされないのである。
トップ写真:事故を起こした福島第一原発と防護服の作業員 出典:Pallava Bagla/Corbis via Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。