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.政治  投稿日:2021/3/29

「拉致被害者の即時一括帰国を一日も早く実現を」山谷えり子参議院議員


細川珠生(政治ジャーナリスト)

「細川珠生のモーニングトーク」2021年3月20日放送

Japan In-depth編集部(油井彩姫)

【まとめ】

・北朝鮮は「六重苦=コロナ、去年の水害、国連経済制裁、金正恩の健康不安、幹部の不満、対中国関係」に直面。

・北朝鮮にとり、拉致問題の解決が国家の命運と絡んできてる。

・全拉致被害者の即時一括帰国を一日も早く実現しなければならない。

 

今週の「細川珠生のモーニングトーク」は、最終回を目前に控え、自民党山谷えり子参議院議員をゲストに迎えた。山谷氏は自民党の北朝鮮による拉致問題対策本部長である。拉致問題のことを中心に、政治ジャーナリストの細川珠生氏が話を聞いた。

はじめに細川氏は、拉致被害者の救出について、政府交渉の現状を聞いた。

山谷氏は、「本部長として、情報収集・分析はできる限りやり続けている。菅総理とも時々情報交換をしている」とした上で、「安倍総理の時からとにかくチャンスを掴むんだと日朝首脳会談を条件つけずにやっていきたいと(している)。その扉を開くためのきっかけを模索をしているところ」だと、現状を説明した。

北朝鮮は今、「六重苦」に直面しているという。それは、「コロナ、去年の水害、国連の経済制裁、金正恩の健康不安、平壌や幹部たちの不満、中国との関係」だと山谷氏は述べた。

そうした中で金正恩は国民に向け、「経済政策でみなさんの期待に応えられなくて申し訳ない」と涙を流して訴えるほど窮地に陥っていると述べた。

その上で、今は北朝鮮にとって、「拉致問題の解決が国家の命運と絡んできてる。だからこそ今扉を開くんだという決意でいる」と述べ、今が拉致問題解決においてチャンスだとの見方を示した。

細川氏は、「1980年に産経新聞が初めて『アベック蒸発事件』として公明党の参議院議員が質問したのを取り上げた。国会で北朝鮮という言葉が出てきたのはそれからまた8年後。また、横田めぐみさんという名前が出てきたのもまた更に約9年先。政府の中でも国会の中でも、北朝鮮による犯罪だということは明らかになっていなかった」とこれまでの経緯を述べ、「山谷氏はこの拉致問題に初めて出会った時どう思ったか」と、聞いた。

山谷氏は、「私は福井で育ったが、夕方海岸を1人で歩いたら神隠しにあう、などと言われていた」と、明かした。「昭和52年にはアベック謎の蒸発という報道があって、これがそうなのかと思った」と述べた。

その後、政治の世界で目立った動きはなかったが、昭和63年に梶山静六国家公安委員長(当時)が、予算委員会で日本海側のアベック失跡事件について「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁した。

それを受け山谷氏は、「一体日本は国家なのか、とずっと思っていた。それが国会議員になろうと思った一つの大きな要因だった」と振り返った。

細川氏は、「この番組は1995年9月2日に始まり、それから26年6ヶ経った。その間、被害者5人とそのご家族が帰国したが、横田めぐみさんはじめ、まだ救い出せてない日本人被害者が多数いる」と述べた。

また梶山答弁後も「政治の問題として認識をされなかったり、政府の動きも非常に遅かった」と述べ、「何が問題を難しくしているのか。何か動かない別の理由があったのか」を聞いた。

山谷氏は、当時は日本に情報収集能力が無かったことを挙げ、「安倍内閣になってから、特定秘密保護法を作ったり、国家安全保障会議を開いたり、各国との連携が強くなって情報収集能力は格段に上がってきている」と述べた。

一方で政府の動きが鈍かった原因として、「憲法前文に『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我々の安全と生存を保持しようと決意した』と書いてある。(拉致のような)そんなことは起きないんだ、という、リアリズムとは全く反対の、眠りこけたような感覚が戦後ずっとあったのではないか」と述べた。

また、「報道ももっと沸騰しなければならなかったし、そのためには事実を知らせなければならなかった。政治家も炎のように進まなければならなかった。色々な要因があってこんなにも長い間解決できないのは本当に悔しい限りだ。正義は勝つんだと、必ず勝たなければいけないという気持ちで頑張り続けよう、と横田めぐみさんの弟の拓也さんにも話した」と述べた。

また山谷氏は、安倍内閣の時に北朝鮮の人権侵害と拉致問題の国連のレポート400ページにわたるレポートは初めて作ったことに触れ、拉致担当大臣の時に世界中にそれを説明しに回ったことを明かし、「全ての拉致被害者の即時一括帰国という最終目標を、一日も早く実現しなければならないと思っている」と決意を語った。

最後に、細川氏は、「この番組は来週が最終回になる。当初は父の細川隆一郎と『珠生・隆一郎のモーニングトーク』として、1995年に番組が始まった。2009年8月22日の放送を最後に、その3日後に父が亡くなってから、その後は『細川珠生のモーニングトーク』として私が独り立ちし続けてきた。トータルで26年6ヶ月、通算1337回、ゲスト述べ768人になった。山谷氏には多数出演してもらったが、特にお礼を言いたいのは、私が出産の時、代わりに出演をして父の相手を務めていただいたこと。山谷氏もサンケイリビングの編集長を務められて、ジャーナリストのご出身。お父様の山谷親平さんも産経新聞の記者で、私の父とは記者仲間として、本当に両家の付き合いは長い」と述べた。

そのうえで、山谷氏に「政治とジャーナリズムの関係、ジャーナリストの社会での役割」について聞いた。

「父は、『山も谷もあるがしんぺえすんな、山谷親平』なんて言っていたが、戦時中は加藤隼戦闘隊のパイロットで、撃墜されて、傷痍軍人だった。戦争が終わり、『大本営発表じゃだめだ、真実を知らせるということが国家の力、人々の幸せに繋がるんだ』といって国会担当の政治部記者になった」と述懐した。

当時は占領時代でGHQの検閲が厳しかった。

山谷氏は父親の親平氏について、「『日本の国はきちんと国家としての佇まいを整えなければいけない』と言って戦い続けた人生だった」と振り返り、「そんな父の姿を見て私は、政治記者は尊い職業だと思ってきた。今も政治部の記者や政治ジャーナリストは、大きな視点と、皆が見逃してしまいそうなところをしっかりとつかまえるために、忍耐力と取材力の両方が大事だと思う」と述べた。

そして、「日本国民はクオリティが高いから、1人1人が力を合わせれば国家としても社会としても幸せになれるのかなと思う」と締めくくった。

(この記事はラジオ日本「細川珠生のモーニングトーク」2021年3月20日放送の要約です)

 

「細川珠生のモーニングトーク」

ラジオ日本 毎週土曜日午前7時05分~7時20分

ラジオ日本HP http://www.jorf.co.jp/index.php

細川珠生公式HP https://hosokawatamao.com

細川珠生ブログ https://blog.excite.co.jp/tamaohosokawa/

トップ写真:Ⓒ細川珠生事務所




この記事を書いた人
細川珠生政治ジャーナリスト

1991年聖心女子大学卒。米・ペパーダイン大学政治学部留学。1995年「娘のいいぶん~ガンコ親父にうまく育てられる法」で第15回日本文芸大賞女流文学新人賞受賞。「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本、毎土7時5分)は現在放送20年目。2004年~2011年まで品川区教育委員。文部科学省、国土交通省、警察庁等の審議会等委員を歴任。星槎大学非常勤講師(現代政治論)。著書「自治体の挑戦」他多数。日本舞踊岩井流師範。熊本藩主・細川家の末裔。カトリック信者で洗礼名はガラシャ。政治評論家・故・細川隆一郎は父、故・細川隆元は大叔父。

細川珠生

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