バイデン氏、演説で国境危機触れず
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・バイデン大統領初の「議会演説」で大量の違法入国者問題に触れず。
・幼い子供たちが単身で送り込まれる事例が多いことが特徴。
・国境各州は「非常事態宣言」を要求。まさに国家レベルの危機。
アメリカのジョセフ・バイデン大統領の初めての議会演説は日本でも詳しく報道され、論評された。内政を主題としたその4月28日の演説は外交にも及び、広範なテーマが提起された。
この演説は日本の報道機関の多くが「施政方針演説」と名づけていたが、不正確な日本語訳だった。演説の主眼はこれからなにをするという方針よりも、バイデン大統領の就任以来の100日間の業績の報告だった。その報告を議会で初めて述べるという趣旨だった。議会での演説はもちろんアメリカ国民に向けて、ということになる。
しかも肝心のアメリカ側では公式にも、非公式にも演説の名称として「施政方針」などという表現はないのである。アメリカではこの演説は大統領の「議会への演説(Address to Congress)」、あるいは「議会演説」と題されていたのだ。
その点では日本の主要メディアでは日本経済新聞が最も正確だった。他の大手紙が軒並み、日本ふうの意訳の「施政方針演説」と呼んでいたのに対して、日本経済新聞だけはきちんと正確に「議会演説」と評していた。
施政方針演説というのは日本の総理が国会の冒頭に施策の方針を述べる演説である。議会制民主主義の日本では首相は議会から選ばれる。その首相が自分を選んだ議会に対して、これからの政策を報告するのが施政方針演説である。
だが大統領制のアメリカでは大統領は議会ではなく国民の直接の選挙で選ばれる。だから大統領と議会の関係は日本の首相と国会との関係とは異なるのである。そんな背景によってアメリカでの大統領でのこの種の演説は「議会への演説」とされるわけだ。
だから日本経済新聞の正しい用語使用には敬意を表したい。
▲写真 「議会演説」を行うバイデン大統領(2021年4月28日) 出典:米議会下院ホームページ
さてバイデン大統領の4月28日の初の議会演説は時間にすると1時間7分、内容はあくまで内政が重点だった。とはいえ、外交や国際問題にもさらりと触れて、総花的だった。
日本のメディアではこの演説の中国への言及部分だけをピックアップして、拡大し、いかにもバイデン大統領が主に中国について語った「中国政策演説」のように提示したところも多かった。
だがこの取り上げ方はまちがいである。演説全体では中国への言及はきわめて短く、少なかったからだ。演説全体としてはコロナ対策、経済対策、共和党批判、人種問題など国内の諸課題が圧倒的な重みと分量を占めていたのである。
さてこの長い演説のなかでバイデン大統領があえて触れなかった重大課題があった。それはメキシコ国境から怒涛のように侵入してきた大量の違法入国者によるアメリカの社会や国家の危機だった。国境沿いの各州はもちろんアメリカ全体にとっても国家の危機と呼べる状態にまでなっているのだ。
この違法入国者の激増についてはこの連載コラムの今年4月3日の記事でも報告した。だが事態はその後、さらに悪化したのだ。
バイデン大統領はしかし、この切迫した危機に対して単にその不法入国者の発生源となっている中米諸国の問題を提起しただけで終わったのだ。国境沿いのカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ、テキサス各州ではすでに緊急事態となり、バイデン政権にも国家非常事態の宣言を求めているのだ。しかし大統領はこの危機を長い演説のなかではほとんど無視したのだった。
ではこのアメリカにとってのメキシコ国境での危機とはなんなのかを説明しよう。
バイデン政権の誕生以来、アメリカのメキシコ国境に中米からの入国の希望者が巨大な流れとなって押し寄せてきた。大多数が違法の入国希望者、つまりアメリカ側の入国の規則を無視する不法の移民、難民、亡命者とされる。そして、とくに幼い子供たちが単身で送りこまれる事例が多いことがこの危機の特徴なのである。
▲写真 保護された保護者のいない3歳から9歳までの不法移民の子供たち(2021年3月30日 メキシコとの国境に近いテキサス州南部ドナ) 出典:Dario Lopez-Mills – Pool/Getty Images
バイデン大統領の入国政策緩和の結果として起きたこの「違法入国者の殺到」は国境地帯での人道上の悲惨な状況を生み、バイデン政権の最大の悩みとなったといえる。
4月20日、メキシコ国境沿いのアリゾナ州、ダグラス・デューシー知事は同州の非常事態を宣言した。同時に同知事はバイデン大統領に国家非常事態の宣言を要請した。違法難民の殺到でアリゾナ州や国境地域全体への危機が生まれたという訴えだった。
その直後の4月22日にはテキサス州のグレゴリー・アボット知事が同様の危機を訴えた。しかもさらに深刻なことに、違法入国者には新型コロナウイルス感染者が多いことが判明したのだ。アボット知事はこのコロナ感染拡大というアメリカ社会への危機についてとくに強く警告したのだった。
アボット知事はテキサス州を代表してアメリカの連邦政府は違法入国者たちのコロナウイルス検査や防疫の対策をほとんどとっていないとして、バイデン政権の任務不履行への訴訟を起こすという異例の措置をとったのである。
テキサス州が連邦政府を訴えるというのは国家全体を揺るがすような重大な事態だといえよう。
しかしバイデン大統領は議会演説ではこんなことには一切、触れなかったのだ。
国境地帯にはバイデン政権の登場直前から違法入国を試みる男女がそれこそ奔流のように多数、押し寄せてきた。中米グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドルなどからの多数の人間がメキシコを経由してアメリカ国境に集まってきたのだ。目的はただ一つ、違法合法にかかわらず、とにかくアメリカ合衆国の領土内に入ることである。その理由は簡単だった。バイデン大統領がトランプ前政権の国境の壁の建設を停止し、アメリカへの移民や難民の受け入れ制限を緩和する政策を打ち出したことだった。その中米の人たちは、その新政策に奨励され、われもわれも、アメリカへ、という動きをとり始めたのである。
その結果、アメリカ政府の国境警備隊はこの3月だけで合計約17万の違法入国者を逮捕した。昨年12月の7万人の2倍以上の増加だった。とくに18歳未満の未成年の違法入国者が同3月に合計1万8千人と前月から6割増となった。
顕著なのは子供たちが単独で密入国を図るケースが激増したことだった。その原因はバイデン政権がトランプ政権と異なり、違法入国を図って逮捕された子供たちはそのままアメリカ国内の施設に保ち、入国審査をするという寛容な措置だといえる。
▲写真 米国とメキシコの国境で舟でリオグランデ川を渡った後、子供を岸に運ぶ父親(テキサス州ローマ、2021年4月9日) 出典:John Moore/Getty Images
トランプ政権では未成年者だけの違法入国者はアメリカ側で身柄を拘束すれば、原則としてみなメキシコ領内に追い返し、その場で改めてアメリカへの入国手続きなどを審査するという措置をとっていた。だがバイデン政権では未成年者が成人の保護や同行なしに密入国してきても、そのままアメリカ領内への臨時の滞在を認めて、その後の審査をするという寛大な措置へと変えたのだ。
アメリカへの密入国の場合、未成年だけでもなんとかアメリカ滞在が認められると、後からその保護者たる家族がアメリカに入れるという場合が多い。だから入国を切望する側はとにかく子供たちだけでも入国させようと必死になるわけだ。その密入国の物理的な作業はプロの犯罪集団ともいえる密入国業者が暗躍している。
3月末にはニューメキシコ州の国境で密入国斡旋業者が壁のメキシコ側からアメリカ領内への5歳と3歳の少女を落とす瞬間の録画が公表され衝撃波を広げた。少女たちはエクアドル出身の姉妹だった。
テキサス州ドナ市の難民収容所では定員250人に対し4千人の子供が収容され、そのうちの約10%がコロナウイルス感染者という悲惨な状況も判明した。こうした動きは子供たちのアメリカ滞在が認められれば、後からその家族全体が移住できるという期待からだという。
バイデン大統領もこの状態を重視して3月24日にはハリス副大統領を国境難民殺到問題への対処の最高責任者に任命した。だがその後の1ヵ月、ハリス副大統領もバイデン大統領も国境地帯の現地視察を一切、実行していない。その結果、共和党だけでなく一般からも批判されるようになった。4月末の世論調査ではバイデン政権の移民政策への不支持は52%と、コロナ対策、経済対策など主要政策の中では最も不人気だった。
▲写真 テキサス州とメキシコ国境を流れるリオ・グランデ川を視察するテッド・クルーズ上院議員(左から4人目カーキ色のシャツにサングラス)ら国境調査団(2021年3月26日) 出典:Joe Raedle/Getty Images
一方、共和党側ではテッド・クルーズ上院議員らが国境調査団を組織して、テキサス州の国境や難民収容所の現地視察を重ねてきた。その結果、バイデン大統領に対していまの国境の違法入国者殺到の状況を「国家危機」と認めることを求めた。
同大統領は4月17日、地元のデラウェア州のゴルフ場での記者団との簡単な質疑応答で、いまの国境地帯の状況を「危機」と呼んだ。だが同19日にはサキ大統領報道官は「この言葉は大統領の真の意図ではない」と述べ、事実上の発言撤回をした。その結果、共和党側からは「この政権では大統領よりも報道官の言葉が権限を持つのだ」(マコネル上院院内総務)と皮肉られた。
この国境の違法入国者の大波の侵入はいまのアメリカにとって国家レベルの危機なのである。
トップ写真:米国入国を目指すホンジュラスからの移民のキャラバン(2021年1月16日 グアテマラ) 出典:Josue Decavele/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。