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.社会  投稿日:2021/6/23

知られざるトラテロルコの虐殺 それでも五輪は開催された その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・1968年のメキシコシティ五輪後にメキシコは経済成長を遂げた。

・五輪直前に反体制派の学生らが虐殺されたが、五輪は開催された。

・トラテロルコの虐殺は五輪の熱狂の陰に隠れ、国際的関心は薄かった。

  

昨年春、新型コロナ禍によってTOKYO2020の延期が取り沙汰されていた頃、麻生財務相がこんなことを言った。

「オリンピックは40年に一度、大変なことになる」

前にもこの連載の中で紹介されていたが、1940年には東京でオリンピック(当時パラリンピックはまだなかった。以下、五輪)が開催されることが決まっていたのだが、元号でいうと昭和15年で、中国との戦争が泥沼化していたことから、開催権を返上してしまった。ヘルシンキでの代替開催も一度は決定されたのだが、1939年に第二次世界大戦が勃発し、中止のやむなきに至ったのである。

その40年後は1980年だが、モスクワ五輪が開催された。ところが1978年、ソ連軍がアフガニスタンに「援助進駐」と称する侵攻を行った事態を受けて、日本を含む西側諸国の多くがボイコットを決めてしまった。

そして2020年、というわけだが、実は1964年東京五輪に続いての1968年メキシコシティ五輪も、なかなか大変な状況であったのだ。

と言うより、この年は世界各地で政治的な動乱が続いたのだが、それでも五輪が開催されたのである。

▲写真 メキシコシティ五輪開会式(1968年10月12日) 出典:Robert Riger/Getty Images

誤解なきように述べておくが、私は今次の五輪に対して、新型コロナ禍によるもろもろのリスクを冒してでも開催すべきだ、と主張するものではない。

これまで幾度も述べてきたが、五輪出場を夢見てきたアスリートたちの熱意と努力を想えば、開催できればそれに越したことはない、とは思うけれども、首相や都知事がいくら「安全に開催できる」と繰り返しても、即座に信用する気にはなれない。

今回のシリーズは、あらためて1968年の出来事を振り返り、その現代史的な意味を問い直すことをテーマとしたものである。

1964年の東京五輪は、アジアで初めての大会となったが、1968年のメキシコシティ五輪は、中南米で初めての大会であった。

メキシコは日本と違い、第二次世界大戦で打撃を受けることはなかったが、当時は社会の近代化と経済成長の実現に取り組んでいた。その発展ぶりを象徴するのが、首都メキシコシティでの五輪開催であったのだ。

当然ながら政府も大いなる意気込みで準備に取り組み、1億5,000万ドルの投資を行っていた。現在の邦貨に換算して、いくらくらいになるのかよく分からないが、まず半世紀前の話であることと、メキシコの物価水準や米ドルとの貨幣価値の格差など、いくつかの数値から推測するに、少なく見積もっても1兆円を下回ることはなさそうだ。

もちろん多くはインフラの整備に回されるわけだが、当時のメキシコの国民感情は、このことをあまり歓迎していなかった。

「そんなカネがあるのだったら、貧しい人たちの生活を守るために使うべきだ」

というのである。

そして、大会開催(10月12日)を目前に控えた10月2日、トラテロルコの虐殺と呼ばれる事件が起きた。

この日、メキシコシティのトラテロルコ地区にあるラス・トレス・クルトゥラレス広場に、およそ1万人の学生と市民が集まっていた。ちなみにこの広場の名前は「三つの文化」という意味で、古代アステカ文明、スペイン統治時代、そして独立後の近代化という、歴史に残る文化的変遷を象徴したものである。

▲写真 惨劇のあったラス・トレス・クルトゥラレス広場(三文化広場) 出典:Frédéric Soltan/Corbis via Getty Images

この日の集会は、必ずしも五輪開催に反対するためのものではなかったが、参加者の多数を占めた反体制派の学生・高校生グループは、

「我々は五輪を望まない。望むものは革命だ」

という歌を歌って気勢を上げていたとされる。

午後になって、戦車や軍用トラックが広場を包囲し始めたが、集会参加者はその場を動こうとはしなかった。午後6時頃、広場の近くにあるメキシコ外務省付近と、上空を旋回していたヘリコプターから、相次いで信号弾が発射され、続いて一斉射撃が行われた。

当時、メキシコの政府と新聞が発表したところでは、

「群衆が治安部隊に投石・暴行を加えたことから、偶発的な発砲が起き、44人を射殺、1,500人以上が検挙された」

となっていたが、実際の死者は400ないし500人に達していた。

▲写真 警察に拘束された護送車内の学生ら(1968年10月3日 メキシコシティ・トラテロルコ地区) 出典:Bettmann/Getty Images

事件の全貌は長きにわたって謎とされてきたが、2000年代になってから、米国政府の後押し(圧力?)もあって機密文書の公開など、情報開示が進んだのである。

ただ、これも「五輪を開催するために反対派を虐殺した」ということではなかった、ということは見ておく必要があるだろう。

もともと1960年代のメキシコでは、経済発展の影の部分とでもいうべき貧富の格差が拡大し、そのことに対する不満の声も、やはり拡大する一方であった。

これに対して当時の政府は、武力で反体制派を弾圧することを厭わなかった。弾圧の犠牲者の総数は今に至るも明らかになっていない。今では一連の弾圧を総称して、メキシコの穢れた戦争(Guerra sucia en Mexico)と呼ばれている。

ここでもまた、公平を期すために述べておかねばならないが、東京五輪の時と同様、メキシコシティ五輪のための巨額の公共投資は、短期的には反動による景気の悪化を招いたが、その後1970年代の経済成長への道を切り開く役割を立派に果たした。

中南米の多くの国が、20世紀の終盤から今日に至るまで、貧困と政治的混乱にあえいでいるのに対し、メキシコの治安はその後、目に見えて回復していったのである。

「国民の平均年収が1万ドルを超えると政治は静かになる」

などと言われはじめたのは、ちょうどこの頃でもあったようだ。

話を戻して、情報が統制されていたという事情もあって、このトラテロルコの虐殺は、五輪の熱狂の陰に隠れ、国際的な関心を引くということは、ほとんどなかった。

むしろ大会の最中に、陸上競技でメダルを獲得した米国の黒人アスリートが、表彰式で人種差別に抗議するパフォーマンスを行った「ブラックパワー・サリュート」の方が国際的に注目された。当時小学生だった私も、TVニュースで繰り返し見て、なんとなく抗議した側に共感を覚えたものだ。いくらなんでも日本の小学生が、背景にある米国の人種差別問題まで理解できたはずはないので、今思えば日本の子供らしい判官びいきの心情だったのかも知れない。

この話は、次回あらためて。

トップ写真:トラテロルコの虐殺犠牲者に捧げられた石碑(メキシコシティ・ラス・トレス・クルトゥラレス広場) 出典:Frédéric Soltan/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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