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.社会  投稿日:2021/8/15

秀逸な「開戦ドラマ」を見つけた         「戦争追体験」を語り継ぐ その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】


・若い世代に戦争について考えてもらうには、「戦争を追体験できる」映画などが重要。

・『日本のいちばん長い日』、『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』などが秀逸。

・「米国は正義、中国は被害者。日本だけが悪」ではない。 

 

 今年90歳になられる方がいるとしよう。
 1931(昭和6)年生まれだとすれば、14歳で敗戦を迎えたことになる。
 兵隊として実戦を経験していないまでも、家族を亡くしたり、空襲を経験したかも知れず、いわば「戦争の記憶」を持つ世代の中で一番若い方になる、と考えられる。逆に言えば、戦争体験を語り継ぐことができる人たちとは、今や90歳以上にほぼ限られるのだ。

 私自身も戦争を知らないどころか、
「もはや戦後ではない」
 という文言で有名な『経済白書』(昭和31年版)が出た後で生まれている。  
 ただ、昭和20年3月10日の東京大空襲で、
「林の(父方の)親戚は半分になってしまった」
 という話や、母の一家が、朝鮮半島から命からがら引き上げてきた話を聞かされて育っている。当然、昭和の戦争に無関心なままでいることはできず、小学生の頃から戦史や軍事に関する本を読み漁って、知識を蓄えてきた。積み上げれば2階の屋根を超すくらい読んだと思う。戦争映画もたくさん見た。

 そうしたわけで「戦争を追体験できる」映画やドラマ、書籍については、ひとくさり語れるだけの知見は備えているつもりであるし、前述したようにこれから先、平成生まれや令和生まれの人たちに戦争について考えていただくには、もう他に手段がないのではないかと思う。

 太平洋戦争、という呼称からも明らかなように、多くの日本人にとって「昭和の戦争」とは、1941年から45年にかけての、米国を中心とする連合軍との戦いである。

 紙数の関係上、ごく簡単な説明だけでお許しを願わざるを得ないが、本当は1931(昭和6)年の満州事変から足掛け15年にわたって戦時であった。このため今も「15年戦争」という呼び方をする人もいる。「大東亜戦争」と呼ぶ人もいるが、この呼称はいささか問題があるので、私は採用しない。この問題は後で見る。
 私自身は「アジア太平洋戦争」の呼称がもっとも適当であると考えているので、本シリーズでもこの呼称で統一したい。

 この戦争を描いた映画やドラマは、たくさん製作されているが、終戦を描いたものとしては『日本のいちばん長い日』(1967年)が、私見ながら最高傑作だと思う。これについては、2015年に公開されたリメイク版ともども、やはり後で紹介させていただく。

 一方で、対米開戦を決意するに至る時期を描いた映画やドラマは、なかなか現れないな、と思っていたのだが……
『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』
 2008年にTBS系列で放送されたものだが、これが秀逸だった。2部構成で、1部はドキュメンタリー、第2部がドラマで、タイトルが二つに分かれているのもこのためだ。

 ドラマで東条英機を演じたのはビートたけし。配役だけ知った時には(似てるかなあ?)と首をひねったが、なんともよい芝居であった。
 前任となる近衛文麿内閣では陸軍大臣を務め、強硬な対米開戦論者であったのだが、昭和天皇より組閣(=首相就任)の大命を受けるや、外交による解決の道も排除すべきではない、と言い出す。
 昭和天皇が、開戦を望んでいないという本心をほのめかしたことによるもので、彼にとっては、天皇への忠誠心が帝国軍人としてのイデオロギーに優先されていたのだ。
 だが、東条のこうした態度を「手のひら返し」としか受け取らなかった陸軍参謀本部の面々は、激しく彼を突き上げ、民間右翼の一部に至っては暗殺まで企てる。

 昭和天皇は野村萬斎が演じた。参謀総長の杉山元帥を呼びつけて、
「(中国との戦争など)3カ月で片付くと言ったではないか。もう5年になるぞ」
 と詰問し、なにぶん奥地が広いもので、などと弁解する杉山を、
「太平洋はもっと広いではないか」
 と怒鳴りつけるシーンは実に印象的で、やはり上手な人は、どんな役をやらせても上手なのだな、と感じ入った。

 陸軍がこぞって対米開戦を唱えていたのかと言うと、必ずしもそうではなく、陸軍省軍務課の石井秋穂中佐などは、交渉による解決=戦争回避を強硬に主張していた。
 演じたのは阿部寛。これも意外な配役だった。なにしろ、あの濃い顔である。少し後に『テルマエ・ロマエ』(2012年公開)という映画では、古代ローマ人に扮したくらいなもので、昭和の軍人には見えそうもない。
 ところが、坊主頭の軍服姿を見たら、これがなんとも決まっていた。とりわけ、昭和天皇と陸軍との板挟みになって苦悶する東条に、いっそのこと和戦の決断を下すタイムリミット(11月下旬。燃料事情や気象条件から、これ以上は先送りにできないとされていた)直前に内閣総辞職してしまえば、戦争準備がご破算になって和平交渉に弾みがつく、と提案するシーン。東条は、自分はお上(天皇)から、陸軍をしっかり一本化することを求められているのだと言って拒否するのだが、二人の丁々発止こそ、私見このドラマのクライマックスだとさえ思えた。
 ドラマとして非常に面白いだけでなく、東条英機や昭和天皇に対する、よくないイメージも少しは変わるかもしれない。ドキュメンタリーも分かりやすく、もっと賞賛されてよい番組ではないだろうか。

写真)戦後、各地を巡幸される昭和天皇
出典)Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images

 書籍の話ならば、手前味噌ながら私の『<戦争>に強くなる本』(ちくま文庫・電子版アドレナライズ)が、多くの文献を「オススメ本」として紹介しつつ、アジア太平洋戦争の全体像を分かりやすく紹介することができたと自負している。

 今回は対米開戦を決意した背景に論点を絞りたいと思うが、読者は不思議に思われないだろうか。当時の米国の国民総生産(GNP)は日本の20倍であったという。普通に考えて、勝ち目がないことくらい分からなかったのか、と。
 これも、詳しく論じ始めると、なかなか大変な話になるのだが、端的に、やはり時代の限界があったということを指摘しておきたい。
 つまり、現在の我々だからGNPあるいはGDPが何倍と聞かされれば、国力差をかなり具体的にイメージできるのだが、昭和初期には、そうした統計の基礎となる情報すら不十分であった。そこへもってきて、前シリーズでも触れたように、日清・日露と大国相手の戦争に勝利した成功体験があったものだから、


「日本兵は世界一強い」「物量の差は精神力で補うことができる」

 といった、ある種カルトじみた「必勝の信念」でさえ、それなりの説得力を持ってしまう余地があったのだ。

 また、そもそも米国側に、外交交渉によって戦争を避けるべきだとの考えなどなかったことも、繰り返しになるが、きちんと指摘しておきたい。
 東条英機や昭和天皇を擁護しているみたいではないか、と思われた読者も、中にはおられるかも知れないが、そういうことではない。
 彼らに戦争責任があることは当然であるが、公平に見て、彼ら「だけ」の責任に帰することはできないと思うし、なによりアジア太平洋戦争について、
「米国は正義、中国は被害者。日本だけが悪」
 などという歴史観は、断じて成り立たない。そう言いたいだけである。

(続く)

トップ写真)戦後75年の​全国戦没者追悼式での安倍晋三前首相 (2020年8月15日)
出典)Photo by Carl Court/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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