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.社会  投稿日:2021/8/31

剣道部の恩師田中康俊先生へ


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・夏が来ると、ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』を思い出す。

・1988年6月、東大剣道部の合宿でアキレス腱を切断、支えてくれたのが、灘中・高時代の剣道部の恩師田中康俊先生。

・8月8日、その田中先生が亡くなった。ご冥福を祈りたい。

 

先日、文化放送の番組『ロンドンブーツ1号2号田村淳のNewsCLUB』にお呼びいただき、浜松町まで行ってきた。テーマは新型コロナ対策。私は、予定調和を破る発言が多いようで、テレビの地上波の生放送でお声がかかえることはまずないが、文化放送など幾つかのラジオ局からはお呼び頂くことがある。こんな私に発信の機会を与えていただけるスタッフの皆様には、感謝している。

ラジオ番組ではよくあるが、「好きな曲を」と聞かれた。もちろん、事前にお伝えしているのだが、私は、ベン・E・キングの名曲『スタンド・バイ・ミー』をリクエストした。毎年、夏が来ると、この曲を思い出す。

この曲が、我々の世代に馴染み深いのは、大ヒットした映画の主題歌だからだ。曲名と同じ『スタンド・バイ・ミー』である。1987年4月、モダン・ホラーの大御所スティーブン・キングの「恐怖の四季」を原作に、ロブ・ライナー監督が撮影した。リバーフェニックス主演で、4人の少年の一夏の経験を描いた青春映画の傑作だ。

▲写真 映画「スタンド・バイ・ミー」の一シーン 左から2番目がリバーフェニックス(1986年) 出典:Photo by Columbia Pictures/Getty Images

大学時代、私は、この映画を繰り返し観た。それは、映画公開の翌年にあたる1988年6月、東京大学運動会(体育会のこと)剣道部の合宿でアキレス腱を切断したからだ。三井記念病院で手術をして、七月中旬に東京大学の駒場キャンパスで開催された七帝戦剣道大会を終えると、そそくさと兵庫県尼崎市の実家に戻った。

怪我した左足にはギプスがはめられており、松葉杖を使わないと歩けない。家にいてもやることがなく、同期たちが活躍するのを忸怩たる思いでみていた。『スタンド・バイ・ミー』を聴くと、この頃を思い出す。

この頃の私を支えてくれた人がいる。灘中学・高校時代の剣道部の恩師である田中康俊先生だ。何度も連絡をくれ、車でやってきて外に連れ出してくれた。そして、私の話をじっくりと聞き、「この経験も修行」と励ましてくれた。

田中先生の話は説得力があった。経験が言葉から滲み出た。鹿児島県鹿屋生まれの田中先生は、海軍飛行予科練生として終戦を迎えると、兵庫県警に奉職した。港町神戸は鹿児島との縁が深い。川崎重工の創業者川崎正蔵は薩摩出身、神戸新聞を創刊したのも川崎正蔵だ。終戦後、田中先生は、郷里の先輩を頼って神戸にやってきた。

戦後の神戸は治安が悪かった。1975年に高倉健主演で公開された『神戸国際ギャング』で描かれる世界が本当にあったようだ。交番勤務時代、刃物を持った犯罪者と渡り合った話など、1968年生まれの私には想像がつかなかった。

芸は身を助ける。田中先生にとっての芸は、剣道だった。戦後、GHQの命令で剣道は禁止される。復活するのは敗戦から5年後だ。1950年に全日本しない撓競技連盟、次いで1952年に全日本剣道連盟が結成される。兵庫県警でも剣道が復活し、剣道の本場鹿児島で鍛えられた田中先生は、頭角を現し、兵庫県警の選手として活躍する。

筆者が、田中先生と出会ったのは、田中先生が現役を引退し、師範として後進の育成にあたっているときだ。兵庫県警以外でも、県内の子供たちに稽古をつけていた。その中の教え子の一人に河村倫哉君(現大阪大学国際公共政策研究科准教授)がいた。

1981年、私と河村君は灘中学に入学し、ともに剣道部に入った。河村君が灘中学に合格したのをきっかけに、田中先生は灘中学、高校の剣道部に顔を出すようになった。

かつて灘高校の剣道部は強かった。1964年には兵庫県で優勝し、インターハイに出場したこともある。灘高が日比谷高校を抜いて、東京大学合格者数全国一になるのは、その3年後のことだ。文武両道だったようだ。

灘高校でもスポーツで優秀な成績を残す人はいる。私の4年上には水泳の平泳ぎで、全国屈指の選手がいて、東大進学後はインカレで優勝した。その後、ロサンゼルス五輪の代表候補となっている。今年は陸上100メートルのインターハイ近畿予選で、灘高の生徒が優勝した。自己が持つ兵庫県記録を更新したらしい。

ただ、このような競技は、いずれも個人競技だ。偶然、身体的能力が高い生徒が入学してきて、学校教育とは別の地域クラブのような枠組みで鍛えられれば、トップレベルの成績を残すこともあるだろう。1964年の灘高校剣道部は違った。団体戦で、兵庫県で優勝するのは並大抵ではない。田中先生は、当時の生徒たちを興味深く見ていたそうだ。

その後、灘中学・高校剣道部は低迷する。私が入部した頃は、一回戦負けを繰り返していた。田中先生が来られて一変したと言いたいところだが、そうはいかなかった。神戸市内では大会によっては優勝することもあったが、兵庫県内では城下町で剣道が盛んな姫路市や赤穂市の学校には歯が立たなかった。

それでも、私が大学進学後も剣道を続けることができたのは、田中先生の指導下で、一回戦負けから脱却し、剣道が面白くなったからだ。少しだけ自信もつけた。田中先生も、その後、40年にわたり、灘中学、高校の後進を指導してた。私に対しても同様だ。大学、医師となってからも、ご指導いただいた。

私は、人生の節目に田中先生の記憶がある。私は、高校2年の6月に父を亡くした。1型糖尿病で人工透析を受けており、最終的な死因は敗血症だった。初夏の暑い日で、陽射しが強かったことを覚えている。よほどのショックだったのだろう。それ以外の記憶は全くない。

葬儀に真っ先に駆けつけてくれたのが田中先生だった。最後まで最前列に座り、父の死に呆然とする母や私と弟を支えてくれた。

1987年3月、私が大学に合格し、上京する時には、一升瓶を持たせてくれた。東京大学剣道師範の小沼宏至先生に渡すためだ。

当時、小沼先生は警視庁の主席師範。田中先生とは交流が深かったそうだ。入部後に、田中先生から預かった日本酒を渡すと、「田中先生のお弟子さんか。若い頃からの付き合いだよ」と笑顔で受け取られた。小沼先生は、田中先生と同じ「匂い」がした。

田中先生と小沼先生は、家族ぐるみのお付き合いだった。鹿児島出身の田中先生と会津出身の小沼先生は気があったようだ。よくお二人から故郷の話、そして戦後の苦労話を伺った。

8月8日、田中先生が亡くなった。享年96才。突然の体調悪化だったらしい。田中先生がおられなければ、私の人生は、現在とは全く違った形になっていただろう。

私は学生たちに、自分が専攻する学問以外に一つは芸事をやるように勧めている。私にとっては剣道だ。芸事の良いところは何か。それは人生の師匠と会えることだ。芸を極めた人には深みがある。そして、優しい。

田中先生は、若輩である我々に寄り添い、長い時間をかけて指導してくれた。まさに「スタンド・バイ・ミー」だった。私は田中先生から教育を学んだ。少しでも、後進に恩返ししたいと考えている。今頃、天国で小沼先生と談笑しながら、私たちのことを見守っておられることだろう。心からご冥福を祈りたい。

トップ写真:灘校剣道部OBによる田中先生の米寿祝賀会にて。2013年10月13日、神戸にて 出典:筆者提供




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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