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.社会  投稿日:2023/2/18

加賀乙彦氏追悼 東大医学部の劣化を憂う


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・東京大学医学部卒業生から文学者がでている。なぜ、彼らが文学という形で自らの思索を発表しようとしたのか。

・そのような先達の一人に、故加賀乙彦氏(本名小木貞孝)がいる。

・近年、東大医学部から、このような知性は出ていない。同部出身者は急速に劣化していると感じている。

 

「私が福島のためにできることは少ない。ただ、元気にここで生活していることが復興だと思っています」。

小鷹昌明医師は言う。小鷹医師は、東日本大震災直後に勤務していた獨協医科大学を辞め、南相馬市に入った。現在まで同地で勤務を続けている。

小鷹医師と私の出会いは、埼玉県の行田総合病院で非常勤医としてご一緒したことだ。誠実で、優秀な医師だった。東日本大震災当日も、隣のブースで診療していた。交通機関が止まったあと、車で熊谷駅まで送っていただいた。

小鷹医師は神経内科専門医だ。神経難病に悩む多くの患者さんを診察してきた。様々な理不尽を実感したはずだ。また、大学病院で医局長を務めていた小鷹医師は、医局の不祥事で、管理責任を問われていた。 ネットニュースで事件を知っていた私は、彼を追及するのは理不尽な話と感じていた。将来に悩んでいた小鷹医師を浜通りにご案内した。詳細は省くが、南相馬市に移住した小鷹医師は、診療の傍ら、現地に溶け込もうとした(写真)。様々な苦労を経験したようだ。

震災から12年が経過し、彼の頭の中で考えは熟成した。それが、冒頭の発言に繋がった。小鷹医師には文才があり、獨協医大時代から多くの著作を発表していた。南相馬市移住後も、執筆活動を続けた。今後、福島での思索を小説などの形で発表するはずだ。期待したい。

私が、卒業した東京大学医学部の卒業生からは、複数の文学者がでている。小鷹医師とお付き合いして、私も医師と文学の関係に関心を持つようになった。そして、なぜ、彼らが文学という形で自らの思索を発表しようとしたのか考える様になった。

そのような先達の一人に、1月12日に亡くなった加賀乙彦氏(本名小木貞孝)がいる。享年93才だった。小鷹医師同様、彼の人生も興味深い。

加賀氏は名古屋陸軍幼年学校在学中に終戦を迎え、その後、旧制都立高校理科から東京大学医学部に進み、昭和28年に卒業した医師だ。専門は精神科で、東大病院精神科や東京拘置所などでの勤務経験がある。

加賀氏の代表作は、『永遠の都』と、その続編である『雲の都』だ。日本海海戦に従軍した元海軍軍医で、戦前に東京の三田で医院を開業した祖父に始まる一族の歴史を扱ったものだ。

私が注目したのは、「小木」という姓だ。この姓は、現在の石川県である加賀藩に多かった。江戸時代には大藩であった加賀藩は、幕末で目立った働きはなく、新政府から冷遇される。同藩からは大久保利通を暗殺した島田一郎らが出ている。官途での出世が期待できない小木一族は軍に職を求めたのだろう。このあたり、司馬遼太郎の名作『坂之上の雲』の主人公である秋山兄弟と似ている。彼らの故郷の松山藩は、新政府から朝敵とされ、明治以降、冷遇された。

加賀氏が『永遠の都』を記した背景には、明治維新から第二次世界大戦に至るまで、自らの力ではどうすることも出来ない一族の運命を実感したのだろう。さらに、戦後、精神科医として東京拘置所などで勤務し、人は、そのような環境の中、どう生きるべきか考えたはずだ。こうやって、日本を代表する知性が涵養された。

実は、東京大学医学部からは、加賀氏以外にも多くの作家・思想家が出ている。古くは森鴎外(明治14年卒、軍医)、加藤周一(大正7年卒、内科)、安部公房(昭和23年卒、医師免許は取得せず)、養老孟司(昭和37年卒、解剖学)らだ。

加賀氏に限らず、この中にエリートとして、順風満帆な人生を歩んだ人はいない。例えば、安部公房は満州で幼少期を過ごし、両親は北海道開拓移民だ。成長の過程で社会の不合理を考えざるを得なかった。

近年、東大医学部から、このような知性は出ていない。作家として有名な現役医師は、和田秀樹氏(昭和60年卒、精神科)くらいだろうか。昨年は『80才の壁』や『70才が老化の分かれ道』を出版し、日本一のベストセラー作家となった。和田氏らしく、幅広い読者層を狙った分かりやすい本だが、この著作から思考の深みは感じられない。そもそも、和田氏は、そのようなことを狙っていないだろうし、考えてもいないだろう。

それは、自戒も含めて言うが、甘やかされて育ったからだ。和田氏は、1960年に大阪市の会社員の家庭に生まれ、灘中・灘高から東大理科3類に進学したエリートだ。加賀氏ら先達とは、育った時代も環境も全く違う。

私は、東大医学部出身者は急速に劣化していると感じている。総合情報誌『選択』は、今年の一月号の「日本のサンクチュアリ」のコーナーで『鉄門倶楽部 腐乱する医療界の「総本山」』という記事を掲載し、カネとポストにすり寄る実態を紹介した。

登場するのは、私も面識がある先輩医師たちだが、彼らの大部分には罪の意識はない。優秀な若者が閉鎖的な空間に留め置かれ、周囲からエリートと持て囃されるとこうなるのだろう。かつての陸軍参謀本部の若手将校と酷似する。

東大医学部の劣化は、日本のエリートの現状を象徴している。どうすればいいのか。若いうちに苦労することだ。小鷹医師をはじめ、先達は、どうしようもない理不尽を経験した。そして、考えた。東日本大震災後の福島でも、コロナ禍の生活保護世帯でもいい。成長したければ、問題意識がある若いうちに現場を経験し、自分の頭で考えねばならない

▲写真 南相馬市で被災者とともに体操する小鷹医師(中央)2012年8月(筆者提供)

トップ画像:東京大学医学部付属病院(2003年1月18日)出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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