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.国際  投稿日:2021/11/11

中国共産党100年史とアメリカ その3 日本が共通の敵だった


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・中国共産党とアメリカ側の民間識者との間には独特の絆があった。

・中国共産党とアメリカにとって共通の敵は日本だった。

・アメリカは19944年7月に中国共産党に正式の使節団を送った。

 

中国共産党にとって結党から20年ほどのこの時代のアメリカ側でのこうした理解者たちの役割は非常に大きかった。国民党にくらべて力の弱かった共産党はアメリカ側のこのような少数とはいえ影響力の強い人物たちに多様な形で助けられたのだ。

中国共産党側でも毛沢東周恩来だけでなく、林彪、朱徳、鄧小平、謝子長、徐向前、張国燾といった幹部たちがそれぞれにアメリカ側の同調者たちにはさまざまな経路で手を差し伸べていた。

だから中国共産党とアメリカの間では、まず同党とアメリカ側の民間の識者たちとの独特の絆があったということなのである。その絆が草創期、そして闘争初期の中国共産党へのアメリカ側全体の認識を前向きな方向へ推す効果があったのだ。

この現象は一面、奇妙でもあった。中国共産党の信奉した共産主義、つまりマルクス・レーニン主義とアメリカ合衆国の建国の理念とした自由民主主義とは水と油である。無神論の中国共産党とキリスト教主体のアメリカと、衝突する要素は多々あったのだ。

だが当時は中国共産党も旧弊の封建主義に近い専制政治体制をより広い大衆の利益のために打倒する、というような新鮮な改革という要素も強かった。アメリカ側の識者たちはそのあたりをみて、アメリカの価値観とも矛盾はしないという認識を抱いたのだといえよう。美しき誤解、さらには幻想という要素があったことも否定できないだろう。

アメリカも中国共産党も、旧体制を否定して、新天地に民衆のための新たな国家をつくる、というようなアメリカ側知識人たちの当時の認識だった。いまからみれば甘い認識だが、この志向はその後もアメリカの対中姿勢に長く尾を引く部分があった。

だがもう一つ、中国共産党とアメリカとの当時の接近には大きな要素があった。それは日本だったのだ。簡単にいえば、中国共産党とアメリカにとっては当時の大日本帝国は共通の敵だったのである。

この要素は当時の中国共産党とアメリカの両方にとって、きわめて実利的、戦略的な意味があった。

日本が1930年代はじめ、日露戦争での勝利で取得していた満州(現在の中国東北部)での種々の権益を守ることから始めた中国領内での軍事活動には中国側の国民党、共産党ともに侵略として激しく抵抗した。

その抗日の戦いをアメリカは陰に陽に支援していたのだ。だからアメリカ側では反日がイコール、中国共産党支援に結びつくという部分があったのである。

反日を基礎とするアメリカの中国共産党支援は日本とアメリカの戦争が始まってからはさらに顕著かつ公式となった。

1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、アメリカとの全面戦争に突入してからはアメリカは中国にも正面からの直接の軍事援助から戦闘支援までを与えるようになった。

日本は中国との全面戦争は1937年7月の盧溝橋事変からだった。その時期の日本の正面の敵は蒋介石が率いる国民党の政権と軍隊だった。

だが中国共産党もまだ戦力は小規模だったとはいえ、国民党との国共合作の大方針の下に日本軍への戦いを挑んでいた。

アメリカ政府の軍事援助の主対象はあくまで国民党の政権とその軍隊だったが、中国共産党にも連携や支援の手を差し伸べたのである。

アメリカが中国共産党に正式の使節団を送ったのは日米戦争も後半に入った1944年7月だった。この使節団は正式には「アメリカ陸軍視察団」という名称だったが、通称としてディキシー使節団と呼ばれた。ディキシーはアメリカの南部諸州を指す通称だった。

この使節団の中国共産党にとっての意義は大きかった。アメリカとの正式の軍事面での協力の絆を意味したからだ。

アメリカ側でのこの使節団の総責任者は陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍だった。スティルウェルはアメリカ陸軍士官学校出身の職業軍人だったが、若いころから中国に武官などとして在勤し、中国事情に詳しかった。

▲写真 中国の蔣介石と米陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル(1945年) 出典:Photo by American Stock/Getty Images

彼は当初は国民党軍で蒋介石の参謀長となり、日本軍や共産党軍との戦闘で作戦を助言した。だが日米戦争が始まると、米軍の中国・ビルマ・インド戦域陸軍司令官となり、日本軍と全面戦闘に入った。そして1944年には中国共産党の人民解放軍との連携のために同使節団を派遣したのだった。

このころの共産党の本拠は陕西省の山岳地帯、延安にあった。洞窟を多数、使った本拠地だった。

(その4につづく。その1その2。全5回)

**この記事は日本戦略研究フォーラム季報2021年10月号に掲載された古森義久氏の論文の転載です。

トップ画像:天津に入る日本軍(1937年8月4日) 出典:Bettmann / GettyImages




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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