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.国際  投稿日:2021/12/6

「真珠湾攻撃」80年〝だまし討ち〟の汚名避ける方法はあった


樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)

【まとめ】

・真珠湾攻撃で戦死した戦艦乗組員の身元がDNA鑑定で80年ぶりに判明した。

・時の流れ、日米首脳の広島、真珠湾相互訪問で太平洋戦争は「歴史」に入りつつある。

・学術的には多くの疑問が未解明。なぜ〝最後通告〟を手書きにして遅延を避けなかったのか。関係者が亡くなっており解明は望めないだろう。

 

■「オクラホマ」の361人、80年ぶりに身元判明

6月の晴れ渡ったハワイの空、そのしじまを21発の礼砲の音が破った。

太平洋戦争の発端となった日本軍の真珠湾攻撃で転覆したアメリカ戦艦に乗り組み、戦死した兵士361人の身元がDNA鑑定で判明、あらためて慰霊式が行われた。

ことし2021年12月8日(米時間7日)は、悲劇が始まったあの日から80年の大きな節目に当たる。

無名戦士たちが、新しい墓碑銘の下で安らぎを得たことは、米側にとってひとつの区切りとなった。太平洋戦争は、さらに歴史の範疇に近づいたといっていい。

最新テクノロジーによって、戦死者の身元判明は往時とは比較にならぬくらい進歩を遂げた。とはいうものの、あの戦争を、歴史問題として、また外交、政治問題として、とらえた場合、依然解決されない多くのナゾが残されたままだ。

■DNA鑑定など最新技術を駆使

「Time」電子版(2021年11月23日)によると、ホノルルの太平洋国立祈念墓地の新しい墓石に祀られたのは日本軍の雷撃によって転覆、沈没した戦艦「オクラホマ」の乗組員。

当時艦内にいた約500人のうち戦死者は429人。転覆時に艦内に閉じ込められたとみられ、完全な姿で収容された遺体はほとんどなかった。いずれも損傷が激しく身元の特定は困難を極めた。

21世紀に入って、ホノルルの共同墓地に「身元不明者」として埋葬されていた戦友の身元を確認、収容してほしいというパ-ルハーバー生き残りの兵士らの希望が国防総省(ペンタゴン)に伝えられた。

ペンタゴンはこれを容れ、ホノルル・ヒッカムの海空軍統合基地にある捕虜・不明兵士確認局(DPAA)の研究所が2015年、乗組員の墓地掘り起こしを開始。DNA鑑定、人類学、歯科、遺伝学の最新技術を駆使して、調査を進め80%を超える身元判明にこぎつけた。 

▲写真 国立太平洋記念墓地 出典:Getty Images

■追悼式には〝まだ見ぬ〟親族も

あらたに身元が判明した乗組員の中には、シカゴ出身の当時24歳と23歳の兄弟も含まれていた。追悼式には兄弟の妹の娘が出席した。

2人の戦死から9年後に生まれた姪は、「80年を経てようやく家に帰ることができたのですね」と会うことのなかった2人の伯父の短い人生を思い涙ぐんでいた。

戦艦「オクラホマ」は、映画「ハワイ・マレー沖海戦」で、真珠湾攻撃に向かう空母の予科練出身パイロットが、米艦の影絵をみながら「標的艦」当てゲームに興じる場面に登場する。真珠湾攻撃1周年にあわせて制作された国策映画のとうりだとすれば、オクラホマの命運は早くから定まっていたことになる。

真珠湾攻撃による米軍側の被害は、戦艦5隻など21隻の艦船が転覆、沈没、2400人にのぼる米軍人が開戦劈頭で命を落とした。

■首脳相互訪問で歴史のかなたに・・ 

戦後、日本国内では、多くの市民の命を一瞬にして奪った広島、長崎への原爆投下が長い期間、アメリカに対して複雑な心境を抱かせる原因になっていた。

一方のアメリカで、これと同列にあるのが「パールハーバー」だ。宣戦布告なしの「だまし討ち」によって多数の将兵の命が奪われたとあって、「リメンバー・パールハーバー」という勝利への誓いの言葉を生んだことはよく知られている。 

この遺恨も、完全に消えることは、もちろんないにせよ、時の流れの中で、次第に薄れつつある。

2016年5月、オバマ米大統領(当時)が広島を訪問、被爆者と抱擁して語り合った。

同じ年の暮れ、安倍晋三首相(同)が真珠湾で献花、演説した。敗者日本に対する戦後の米国の寛容な政策への感謝と、日米同盟の重要性を強調する友情に満ちた演説だった。

■学術論争はなお、かまびすしく 

真珠湾攻撃が、時間的にはもちろん、政治的、心情的にも、もはや「歴史」になりつつあるとすれば、残る未解決の問題は学術的な論争だろう。この決着は難問だ。

もっとも大きいテーマは、最後通告に等しい日米交渉打ち切り覚書の米国への手交が、真珠湾攻撃後になってしまったことの研究だろう。

あわせて、そもそも、日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか、ルーズベルト大統領は、国民を参戦に導くために日本軍の奇襲計画を事前に知りながなら、手をうたなかったのではないかーなどについて、過去も現在も当事者を含め、学者、現代史研究家、ジャーナリストら多くの人たちがさまざまな見解を披歴し、論争はなお衰えることがない。

しかし、あまり議論の対象にはならないものの、具体的かつ大きなナゾが残る。

日本大使館が、覚書のタイプ清書にこだわらず、手書きの文書をアメリカ側に手渡していたら、遅延問題は起きず、「だまし討ち」と非難されることがなかったのではないか。

覚書遅延に関する著作は数多くあるが、この疑問に答えてくれた解説はみられないようだ。

■タイプ清書に手間取り、通告遅れる

野村吉三郎、応援の来栖三郎両大使によるハル米国務長官へ打ち切り覚書が手渡されたのは、真珠湾攻撃が始まった約1時間後だった。

不手際というにはあまりに深刻、「だまし討ち」の汚名を長く着せられることになったこの重大問題をめぐっては、ワシントンの日本大使館に責任を帰する論陣が少なくない

その急先鋒は、当時の東郷茂徳外相(極東軍事裁判で禁固刑を宣告され服役中死去)だろう。

▲写真 東郷茂徳氏(1882年12月10日〜1950年7月23日) 出典:国立国会図書館ウェブサイト(出典:東郷茂徳、1952『時代の一面 : 大戦外交の手記 東郷茂徳遺稿』改造社)

生前、巣鴨拘置所で著した回想録「時代の一面」によると、覚書は14部に分けて、13部までは攻撃前日のワシントンン時間6日朝に送信。しかし、大使館はそれをタイプせずに放置、7日朝から作業にかかったが、完了前に最後の14部と、全文を午後1時(攻撃開始の30分前)にハル国務長官に手渡せという指示電報が来て、大騒ぎとなった。

機密保持のために現地雇用のタイピストに打たせることは東京から禁じられていたため、やや心得のある一等書記官が一人で清書に取り組んでいたが、いかんせん素人の悲しさ、打ち間違いが続出して、ついに指定時間より遅れてしまった。

東郷氏は、前日に届いた分をタイプしておかなかった怠慢が遅延につながったとして「これほど規律のない状態に置いたのか不可解だ」と厳しい言葉を連ねている。

戦後の昭和21年になって外務省が、遅延問題を調査した際の大野勝巳総務課長(当時、のち駐英大使)の「総括意見」も大使館に責任ありとする点では東郷説とほぼ同様の内容だ。 

■手書き文書提出なら遅延避けられた

これに対して、当時日本大使館に、若手官補として勤務していた藤山楢一氏(戦後駐英大使)の回想は興味深い。

藤山氏によると、6日までに到着した分をタイプせずに置いたのは「結論部分がわからないので、出たとこ勝負でタイプするより最後の14本目を読んでから打とう」ということになったという(「一青年外交官の太平洋戦争」)。出先の判断としては、理解できなくもない。

それにもまして興味深いのは、実際にタイプライターと格闘した奥村勝蔵一等書記官自身の証言だ。「少なからずミスタイプがあったが、手書きで修正した。そんなことにかまっていられなかった」(昭和21年の調査に対する回答)と明らかにしている。

これが事実とすれば、実際にハル国務長官に手渡した覚書に、手書きの部分がなかり加えられていただろうことは想像がつく。それなら、なぜ、最初から手書きにして午後1時に合わせなかったのだろうか。

藤山氏も「ペンや鉛筆で加筆修正した汚い文書をそのまま提出する方法もあった」と悔やみながら述べている(前掲書)。  

体裁は悪いが、末代まで「無通告攻撃」「だまし討ち」の汚名を着せられるよりはるかにましだったろう。

■慣例に反すると考え清書に拘泥? 

日本側が、ここまで形式にこだわったことについての、興味深い解説を紹介しよう。関西学院大学の井口治夫教授(アメリカ政治・外交、日米関係)だ。

▲写真 井口治夫氏 出典:関西学院大学ウェブサイト

氏は2点を指摘する。

ひとつは、日米交渉打ち切りの通告という極めて重要な文書は、後世に外交文書として残るものであるから、あくまでも清書して形式を整えることが必要と判断したのではないかということ。

条約上の義務などではないが、タイプによる清書は外交慣例でもあったというから、大使館員はそれに拘泥したのかもしれない。

もうひとつは、多くの手書き部分が含まれている文書を先方に手渡せば、ことが事だけに、アメリカ側に文書の真偽、出所について疑念を抱かせるおそれがあると考えたのではないかという推論だ。

たしかに、形式が不備の文書なら、第3者が勝手にでっちあげたのではないかと疑いをもたれる可能性もあったろう。 

■「宣戦布告」の明言なく、判断誤る

加えて井口教授は、交渉打ち切りの文書に、開戦を予告する文言が一切なかったことも、大使館が事の重大性をいまひとつ理解できかなった原因のひとつになったのではないかとも推論する。

藤山氏も「宣戦布告が明示されていたら、汚いままの文書を提出していたろう」と述べており、結果的に井口説を補強する形になっている。

ちなみに、井口教授の祖父は、当時ワシントンの大使館で大使を補佐する要職にあった井口貞夫参事官(戦後、外務事務次官)だ。遅延問題をめぐる研究で必ずと言っていいほど名前が登場する。

■大使館は開戦予想せず、外務省は不親切 

こうなれば、だれが悪い、だれが責任を負うべきだなどという次元の問題ではもはやなくなる。悲劇というべきだろう。

この問題の本質を突いた明快な見解がある。

来栖特派大使に同行してワシントンに出張していた結城司郎次参事官の極東軍事裁判における証言(昭和22年8月)だ。

「大使館は妥結の希望に支配され、覚書をもって開戦になることを予想していなかった」、「東京も、攻撃開始わずか30分前に通告を終えるという、きわどい芸当を求める以上、訓令はもっと親切であるべきだった」として、双方の過失を指摘している。

いわば「喧嘩両成敗」だが、特派大使の随行員という立場からの証言だけに、客観的、説得力を持つ。

当事者のほとんどが鬼籍に入り、真珠湾攻撃が時の流れで遠い過去になりつつある中では、残念ながら真相の解明は、歴史家の研究に委ねたとしても望むべくもないだろう。 

■古ぼけたタイプライターは何を物語る

ワシントンの日本大使館旧館ロビーに、数年前まで、時代がかったタイプライターが1台おかれていた。

交渉打ち切りの覚書を書記官が慣れない手つきで悪戦苦闘した、あの機械だともいわれたが、実際には、アンダーウッド社の戦後のモデルというから、覚書作成に使用されたものとは異なる。

しかし、対米覚書遅延の教訓を忘れないようにという心配りから、あえて館員の目に触れるように置かれていたという説がある。十分うなずける話ではあるまいか。

トップ写真:真珠湾攻撃 沈む戦艦オクラホマ(右)1941年12月7日 出典:Photo by US Navy/Interim Archives/Getty Images




この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長

昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

樫山幸夫

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