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.国際  投稿日:2022/2/11

五輪イヤー侵攻はロシアの〝お家芸〟過去傍観の米は露の面子保つ解決策を


樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)

【まとめ】

・プーチン大統領は、北京五輪閉幕前にウクライナに侵攻するか?

・ロシアは旧ソ連時代を含め、五輪開催年にしばしば他国への軍事侵攻を強行してきた

・唯一の超大国となったアメリカは強硬策一辺倒ではなくプーチン大統領がメンツを保ちながらこぶしを下ろす方法を考えるべきだ

 

ロシアによるウクライナ侵攻は、北京で開会中の冬季五輪の閉幕を待たずに強行されるという観測がなされている。

それが現実になれば、「平和の祭典」を踏みにじる暴挙というほかはない。

過去を振り返ってみれば、ロシアは、旧ソ連時代を含めて、オリンピックの年に他国へ侵攻したことが何度もある。

アフガニスタン侵攻、南オセチア紛争しかり・・

プーチン大統領には、〝ジンクスを守る〟ことなどに、ゆめゆめこだわらぬことを求めたい。

▲写真 ロシアの侵攻に備えるウクライナの兵士たち。(2022年2月9日、ウクライナ・ピスキーで) 出典:Photo by Gaelle Girbes/Getty Images

■ 無駄に終わったアフガニスタン介入

五輪イヤーのロシア侵攻と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、1979年暮れのソ連によるアフガニスタン侵攻だろう。1980年新年の各紙で報じられた。

▲写真 カブールで通りを歩くソ連軍の兵士たち。1988年5月5日 アフガニスタン・カブール 出典:Photo by Robert Nickelsberg/Liaison

1980年の冬季五輪はアメリカのレークプラシッド、「夏季」はソ連自らホスト国としてモスクワで開催予定だった(当時は冬季、夏季を同年に開催)が予定されていた。 

内部抗争を繰り返すアフガニスタンの左派政権と反政府勢力との抗争が続き、政権側が圧倒的に不利となったことから、新指導部がソ連に介入を要請した。

当初は、ブレジネフ書記長ら当時のソ連共産党、政府高官の間にも慎重論が少なくなかったようだ。しかし、アメリカが反政府勢力に対して密かに武器供与を行っていたこともあって、「この地域で影響力を失う危険性がある」として、12月24日、軍事介入に踏み切った。

西側各国は「主権国家に対する侵略行為」だとしてソ連を強く非難。アメリカのカーター政権が音頭をとってモスクワ五輪ボイコットを呼びかけ、日本、統一前の西ドイツ、韓国、中国など50近い国が同調して参加を見送った。イギリスは政府の要請を拒否した五輪委員会が独自に選手団を派遣した。

幻のモスクワ五輪〟をめぐっては、選手たちの間で、多くの悲劇的なドラマが生まれたが、詳細は別な機会に譲りたい。

 今に至る後遺症、アメリカの威信低下招く

ソ連は、この武力介入によって、ベトナム戦争でのアメリカ同様、泥沼にはまり込み、アフガンを自らの勢力下に置くという目的を達成することなく1989年に完全撤退した。

9年にわたる長期戦のソ連側の戦死者は1万4000人、アフガン側はその数倍にのぼるという見方もある。

ソ連撤退後もアフガニスタンには平和が訪れることはなかった。

ソ連と戦ったムジャヒディーンと呼ばれる兵士、武装勢力が群雄割拠し、そのなかからイスラム原理主義者のタリバンが権力を掌握、人権抑圧的な政策を続けた。

ムジャヒディーンに各国から参加した義勇兵はその数20万人、アメリカでの9・11同時テロを断行したアルカーイダの指導者、ウサマ・ビン・ラーディンも一員だった。

9・11の後、ビン・ラーディンを匿ったタリバンをアメリカが攻撃、一時は勝利を収め、新しい政府が作り上げられた。しかし、政権はいずれも安定を欠き、そのすきをついてタリバンが復活。その攻勢によって昨年、アメリカが屈辱的な撤退に追い込まれたのは記憶に新しい。

ソ連のアフガン侵攻の残滓は現在まで残ってるといっていい。

■ 前回の北京五輪はグルジア攻撃

比較的、最近の例では2008年、時あたかも北京夏季五輪と時期を合わせるように起きたグルジア(現ジョージア)の南オセチア紛争がある。

8月7日、ロシア領の北オセチア共和国への編入を求めるグルジア・南オセチアをめぐっての武力衝突が起きた。

▲写真 燃えている装甲車から逃げるグルジア兵士たち(2008年8月11日、ジョージア州ゴリ、トビリシ) 出典:Photo by Uriel Sinai/Getty Images

グルジアが先制攻撃したといわれるが、ロシアの過剰な攻撃は、以前から介入の準備をしていたことをうかがわせ、グルジアが挑発に乗ってしまったというのが真相のようだ。

EU(欧州連合)議長国のフランスの仲介で、8月中旬に停戦にこぎつけたが、ロシアは南オセチアに軍の駐留を続け、両国の関係は現在も緊張状態が続いている。

プーチン氏は連続3選を禁じた憲法に則って大統領をいったん退き、首相職にあった。メメドベージェフ大統領はプーチン氏の指名で〝ワンポイント〟として選出された経緯があり、プーチン氏が実質的なトップとしてこの問題でも指揮を執っていた。 

この年の北京五輪は8月8日から24日まで開かれた。武力衝突の時期はまさに五輪期間中だったが、プーチン氏にとっては、一顧だにする価値もなかったようだ。

■ メキシコ五輪の年「プラハの春」踏みにじる

歴史をさかのぼって、記憶しておかなければならないソ連の蛮行は、1968年のチェコ事件、さらに古いところでは1956年のハンガリー動乱がある。 

前者についていえば、世界体操界の〝名花〟とうたわれたベラ・チャスラフスカ選手のメキシコ五輪での活躍と結びつけて「あの事件か」と思い起こす読者もおられよう。これは後述する。

1968年初めから春にかけて、チェコスロバキア(その後、チェコとスロバキアに分離)国内で、長い経済停滞にあえぎ、言論抑圧に苦しむ国民が勇を鼓して自由化を求め始めた。

ソ連に忠実だった共産党第一書記兼大統領が辞任。改革派の旗手、アレクサンデル・ドプチェク氏が第一書記の後を襲った。

氏は「人間の顔をした社会主義」を標榜し、党中央委員会で、党への権力一元化見直し、スターリンによって粛清された犠牲者の名誉回復、言論、芸術活動の自由化、西側との経済関係強化などを打ち出した。

プラハの春〟とよばれる、この民主化運動を苦々しく眺めていたソ連のブレジネフ政権は、9月に前倒しされた党大会で、これらの自由化政策が追認されると、いっそう深刻な事態を招くとして、その前に介入することを決断した。

侵攻の名目にされたのは、「社会主義陣営全体の利益は一国の利益に優先する」というブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)だ。戦前のコミンテルン(共産党の国際組織)を主宰したソ連らしい乱暴な論理だった。 

8月20日深夜から、ソ連軍にハンガリー、ポーランドなど4カ国を加えた20万人の部隊がチェコに越境、たちまち全土を制圧した。

犠牲者の数などははっきりしないが、20日から翌朝までの間だけで、100人以上の市民が犠牲になったといわれる。

▲写真 チェコスロバキア占領下のプラハ中心部で、ソビエト軍の戦車と市民 (1968年8月25日) 出典:Photo by Keystone/Getty Images

ドプチェク氏らはモスクワに連行されたが、国際的な非難、圧力を受けて、ソ連はやむなく解放。しかし、自由化路線はその後、勢いを失い、同氏は翌年、失脚、保守派が再び台頭した。

東京五輪女子体操で個人総合など3個の金メダルに輝き、日本で大きな人気を誇ったチェコのベラ・チャスラフスカ選手は、芸術家、知識層などが、自由化の推進を求めた「2000語宣言」という公開状に署名していたことから、当局の嫌がらせにあい、10月12日のメキシコ五輪開会式直前になってようやく出国が認められた。

メキシコでは、個人総合など4個の金メダルを獲得したが、ソ連の侵攻に抗議して東京での赤ではなく、青のレオタードで演技、優勝を逃した平均台での表彰式では、抗議の意味を込めて金メダルを獲得したソ連選手とは挨拶も交わさなかった。

引退後は私生活でのトラブルもあり、華々しい活躍ぶりとは裏腹につらい晩年を送った。2016年、74歳で寂しく亡くなった。

▲写真 メキシコオリンピックで跳馬演技をするベラ・チャフラフスカ選手(1968年10月25日) 出典:Getty Images Sport

■ 五輪に暗い影落としたハンガリー動乱

メルボルン夏季五輪(11月22日開幕)直前のハンガリー動乱も、自由化を求める市民の要求を戦車が蹂躙した冷酷な事件だ。

1956年の春から始まった社会主義労働者党の圧政に抵抗する市民らの抗議活動は、次第に激化。7月に保守・強硬派の労働者党書記長が登場したのを機に、10月には治安機関と対立、政府機関の占拠に発展した。

10月下旬と11月のはじめの2度にわたって、ソ連軍の戦車2500両、15万人の部隊が侵攻。11月10日までの間、労働者、学生、知識人らとの衝突が続き、2万人近い市民らが犠牲になったともいわれる。

▲写真 首都中心部を占拠するソビエト軍の戦車(1956年11月5日 ハンガリー・ブタペスト) 出典:Photo by Keystone/Getty Images

事件後、ソ連の後押しで登場した新政権は1200人を拘束、その死刑を執行した。

事件のさ中に、国民慰撫のために就任した改革派が支持する首相も、ユーゴ大使館に亡命したが、結局ソ連に捕らえられ2年後に処刑された。

事件は当然のことながら、五輪にも影を落とした。

水球のソ連対ハンガリーの試合では、両国選手が乱闘、取材した日本の特派員によると、「血潮が糸を引いて水の中から湧き上がってきた」という凄惨な状況だった。 

ちなみに、この年冬季五輪は1月から2月にかけてイタリアのコルチナ・ダンペッツオで開催。スキー男子回転に出場した猪谷千春選手が2位に入り、日本人として初めて冬季五輪でメダルを獲得した。日本にとっては記念すべき大会だった。

■ 米、平和共存優先させ介入避ける

これら一連の過去の旧ソ連、ロシアによる侵攻を振り返ってみると、いくつかの疑問が浮かびあがってくる。

最大のナゾは、今回のウクライナ問題でロシアをしきりにけん制しているアメリカがなぜ、過去には介入しなかったのかーということだ。

様々な解説、見方がなされている。

いずれも米国の大統領選の年に起きていること、チェコ事件についていえば、ジョンソン政権が、戦略兵器制限交渉(SALT)を控え、ソ連を刺激したくなかったこと、アフガニスタン問題では、テヘランの米大使館人質事件の発生直後で、カーター政権が、この解決に忙殺されていたーなどだ。

いずれももっともらしい分析だが、背景にあるのは、もっと本質的なことではあるまいか。

アメリカが、ソ連とその衛星国との問題に関わるのを、あえて避けたとみるべきだろう。冷戦たけなわの当時、相手の勢力圏に手を伸ばすことは、力のバランスを失わせ、まがりなりにも保たれていた東西の共存体制を崩す危険があったからではないか。

 米は融通無碍な外交で決着図れ

しかし、いまは状況が異なる。

冷戦ははるか昔の物語、ソ連も消滅した。

今日、アメリカは世界の問題に関与するに、だれはばかることはない。

今回のウクライナ危機でアメリカは、周辺国に兵力を派遣、ロシアをけん制する一方、プーチン大統領が武力侵攻を強行すれば、大規模な経済制裁を断行する構えをみせている。国際貿易のドル決済からロシアを締め出すことなどが検討されているという。しかし、強硬策一辺倒でいいのか。

2月7日に行われたプーチン大統領とフランスのマクロン大統領との会談について仏側は「ロシアがあらたな軍事行動をとらないと約束した」などと発表した。ロシア側は翌日、これを否定したが、どちらが真相かはともかく、ロシアがかならずしも、武力にこだわっているのではないという事実が透けて見える。 

▲写真 露仏首脳会談 右プーチン大統領、左マクロン仏大統領(2022年2月7日) 出典:ロシア大統領府

アメリカとしては、振り上げたこぶしをプーチン大統領がメンツを保っておろすことができる収束方法をさぐるべきだろう。

強硬策や武力でことを解決することだけが、超大国の役割ではない。

ハンガリー動乱、チェコ事件とは時代が違う。アメリカは唯一の超大国として、どの国とも、どの首脳とも忌憚なく話ができる融通無碍な外交政策を展開すべきだろう。

トップ写真:プーチン露大統領、バイデン米大統領、ウクライナのゼレンスキー大統領に扮した抗議者たちが、ウクライナ戦争の脅威に対し外交的解決を要求するデモを行う。(2022年2月9日、ドイツのベルリンで) 出典:Photo by Sean Gallup/Getty Images




この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長

昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

樫山幸夫

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