ワグネルとイスラム国(下) ロシア・ウクライナ戦争の影で その5
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・政情不安定な中央アフリカ、政府と協力関係のワグネルに撤退の噂。
・そのタイミングで、イスラム武装組織の勢力が急激に拡大。
・アフガニスタンから米軍撤退後、タリバンが政権樹立した悪夢の再現になるのでは。
前回も少し触れたが、ワグネルの創設は2014年で、この年に起きた、ロシアによるクリミア併合に参戦した。当時の兵力は250人程度であったと伝えられる。
大半が元軍人であり、直接の戦闘よりも、主に親ロシア派武装勢力のメンバーを訓練する任務を引き受けていたようだ。
幾度も指摘してきたように、この戦争は当初、兵力において圧倒的なロシア軍が、電撃戦で短期間のうちに勝利するだろうと見る向きも多かった。ところが案に相違して泥沼化し、動員される兵力も、そして犠牲も、日を追って増えていった。
一説によればワグネルは、特殊部隊出身の兵士を選りすぐって、ウクライナのゼレンスキー大統領を標的とする「暗殺部隊」をキーウに送り込んだものの、失敗に終わったという。
その原因についても、英国が世界最強の特殊部隊と称されるSAS(スペシャル・エア・サービス=英国陸軍特殊空挺隊)を派遣して身辺警護に当たらせていたからであるとも、ロシア軍内部から情報が漏れていたからだとも言われる。
洋の東西を問わず、軍隊というのは噂が多いところだと昔から言われており、戦争にはこうした都市伝説めいた話がつきものなので、暗殺部隊云々の件は信憑性に乏しいと言わざるを得ない。
ただ、こうした話が広まる背景には、ワグネルがロシア軍の、非公然の同盟軍とでも言うべき位置づけにあったこと、とりわけ、正規軍が手を染めては国際法の観点から具合が悪い「汚れ仕事」を引き受けていたことを、濃厚に示唆しているのではないか。
そのようなワグネルだけに、戦争の長期化に伴って動員兵力も増大していった。2022年末の段階では5万人に達したとされる。内訳は傭兵が1万、囚人兵が4万だが、これはロシア側の資料に基づいた数字で、英米の軍事筋は、囚人兵の数は2万程度と見積もっている。
兵力不足を補うため、戦争終結後は恩赦を与え、実刑判決も取り消して無罪放免とするという条件で、受刑者(=囚人)を徴募したものだ。
言い換えれば、戦争が終結した暁には、多数の囚人が自由の身になるわけで、ロシア市民の間からは反発する声も聞かれた。こうした声に対してプリコジン氏は、
「あなたたちの息子か、囚人か、いずれかが戦場に赴かねばならない。選択するのは、あなたたち自身だ」
と言い放ったと伝えられる。
またしても余談にわたるが、旧ソ連邦地上軍も、第二次世界大戦に際しては、こうした囚人部隊を編成したし、諸国の軍隊において実例は意外と多い。
ただ、旧日本軍においては、徴兵制度は「天皇に身命を捧げる、名誉ある義務」であったために、禁錮以上の刑に服した者は釈放後も一定期間は公民権が停止され、召集されることもなかった。山口組三代目として知られる田岡一雄も、組事務所に殴り込んできたヤクザを返り討ちにした殺人事件で実刑判決を受けたために、はからずも「民間人」として終戦を迎えたという。
話を戻して、そのようなワグネルであったために、次第に正規軍のトップであるロシア国防省との間で、軋轢が生じるようになった。
前回、今年に入ってからプーチン大横領がワグネルについて、突如としてその存在を公認するような発言をしたのは、囚人兵まで動員せざるを得なくなった事態を正当化するためと、国防省筋をなだめる必要が生じたという、ふたつの理由によるものかと思われる。
いずれにせよワグネルの側では、ウクライナによる反転攻勢にさらされるようになると、自分たちには弾薬も満足に支給されず、要は正規軍の「弾よけ」にされている、といったフラストレーションを抱えるようになったらしい。
6月10日には、国防省からワグネルに対し、あらためて国防省(=正規軍)と直接の契約関係を結ぶことを要請したのだが、プリコジン氏は早くも翌11日、これを拒否する声明を発表した。その後彼は、ロシアによるウクライナ侵攻の正当性までも否定するような発言を繰り返し、プーチン大横領との蜜月に自ら終止符を打った。
直接的な標的は、ロシアのセルゲイ・ショイグ国防相やワレリー・グラシモフ参謀総長であったとされるが、彼ら「腐敗した軍上層部」に掣肘を加えるとして、ウクライナの戦闘地域にある兵力をモスクワに向ける「正義の行進」を介しうると宣言し、直ちに行動に移した。6月23日のことである。
この「行進」は、モスクワまで200キロメートル弱の位置まで兵を進め、プーチン政権側は、市内に多数の軍用車両が配備するなど厳戒態勢に入ったが、今やロシアにとって数少ない同盟国であるベラルーシが仲介に乗り出し、最終的には48時間を経ずして収束した。
プリゴジン氏の消息については、情報が錯綜していて、よく分からないが、悪名高いロシアの情報機関を敵に回して、このまま無事に済むとは考えにくい。
傭兵や囚人兵については、ロシア軍の傘下に入るもよし、ベラルーシに留まるもよし、ということになったようだが、多くは再び「弾よけ」にされることを嫌って、後者の道を選んだ。彼らがベラルーシの兵士を訓練する動画も公開されている。
ワグネルの本部はサンクトペテルブルクにあったが、ここもすでに退去済みで、事実上、組織実態は失われたと言ってよい。
そして、この影響が思わぬところに波及している。
イスラム国が息を吹き返しつつあるのだ。
2006年に結成されたとされているが、アル・カイーダと共闘関係を構築するなど、イスラム過激派として広く知られるようになったのは、2012年頃からである。
最盛期には、中東の数カ国にまたがって30万平方キロメートル(日本の国土面積のおよそ8割にも達する)を支配下に置いたが、米軍を中心とする有志連合の反撃を受け、今や特定の支配地域はなくなり、構成員も最盛期の5%程度にまで減少したとされていた。
この間の経緯については本連載でも触れたことがあるが、ごく簡単に復習すると、ある街を武力制圧し、周囲の交通路を確保することで「領土」を拡大しようとしたならば、ハイテク兵器を豊富に揃えた有志連合に対して不利になることは、火を見るより明らかだったのである。
ところが昨年来、中東に配備されていたハイテク兵器は多くが引き上げられ、一部はウクライナに供与されたが、これは逆に言えば、イスラム国に対する抑止力の減退を意味する。
そのこととワグネルがどう関係するのか、と疑問に思われた向きもあろうが、そもそも彼らは傭兵集団であり、ウクライナ以外にも中東やアフリカにも兵力を送り込んでいた。
それが、くだんの反乱の結果、ロシアに戻って活動を続けられる見込みをなくしたワグネル麾下の傭兵たちは、ほとんど「現地解散」状態となり、組織的な活動を継続できなくなっている。
特に問題なのが、中央アフリカだ。
中央アフリカ共和国は、その名の通りアフリカ大陸中央部に位置する国で、面積は日本の1.6倍に達する(約63万平方キロメートル)一方、人口は500万人足らずである。
1960年に、フランスによる植民地支配から脱して独立したが、その後クーデターが続発して政情はまったく不安定であり、特に2013年にはイスラム武装勢力が暫定政権を樹立し、2016年に民政に復帰したものの、政府の権力基盤は脆弱で、各地に武装勢力が跋扈する「群雄割拠」の状態となっている。
そのような中、ワグネルは中央政府と協力関係を築き、イスラム武装勢力と対峙していたが、これも宗教やイデオロギーが動機ではなく、同国の金鉱の利権が目当てであったに違いないと衆目が一致している。
そのワグネルが撤収する、との情報が政府のみならずスーダン、コンゴなど周辺諸国にも激震を走らせた。ちょうど、イスラム武装勢力が新たに「イスラム国中央アフリカ州」の名のもとに再編成され、勢力も急激に拡大させてきたとして、各国が警戒を強めていた、まさにそのタイミングだったからである。
ちょうどアフガニスタンから米軍が撤退した後、たちまちタリバンが息を吹き返して政権を掌握してしまった、あの悪夢の再現になるのでは……というわけだ。
現時点でワグネルは、
「単なる要員の交代に過ぎない」
として、撤収の噂を否定しているが、お世辞にも義理堅い人たちとは言えないので、先行きはきわめて不透明である。
本来ならば国連が乗り出すべきところ、ヤクザ同然の連中に治安維持を丸投げした結果がこれなのだが、今それを言ってもはじまらない。すでに数百人単位の犠牲者を出す惨事が幾度も起きているが、一日も早くこうした状況から脱して欲しいものだ。
トップ写真:議会選挙に投票する直前、国連平和維持軍と民間治安要員に護衛される中央アフリカ共和国のファウスティン・アルシャンジュ・トゥアデラ大統領(2021年3月14日 中央アフリカ共和国・バンギ)
出典:Siegfried Modola/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。