「石原慎太郎さんとの私的な思い出 2」 続:身捨つるほどの祖国はありや 15
牛島信(弁護士・小説家・元検事)
【まとめ】
・参議院選挙に出馬し当選した石原慎太郎に三島由紀夫は嫉妬していた。
・石原慎太郎は三島由紀夫の死に方を気にしていた。
・私は、小説を書く人間は本質的に「女々しい」と思っている。
石原さんが亡くなったと聞いたとき、私には地の底に引きこまれるほどの悲しみはなかった。いずれそういう時、石原さんが亡くなったと知る時がくるとわかっていたからである。
17歳ちょうど年上、同じ誕生日の方だった。
しばらくお付き合いがあって、なくなって久しかった。その後はメディアを通じて一方的に情報を受け取るだけの日々が続き、いつかは石原さんの死を知るときが来るものと思っていた。
それにしても、石原さんはどうしてあれほどの人気者だったのだろうか?
初めての衆議院選挙に出たときのポスターの写真を覚えている。
選挙の写真とくれば、誰もがスーツにネクタイに決まっている。そこへ、ポロシャツ、ベージュっぽいクリーム色、の姿の石原さんは、なんとも異彩を放っていた。当時、私は大田区に友人宅があったから、彼の家を訪ねたときに見る機会があったのだろう。1972年、石原さんが40歳のときのことである。
ポスターの写真に私は少し驚いた。石原さん、政治家なのだからそんな気構えで大丈夫なのですか、と感じたのだ。
そういえば、石原さんはネクタイの嫌いな方だった。都庁でお会いしたときにも、ワイシャツ姿ではあっても、首もとが緩められていた。
ワイシャツといえば、初めてお会いした98年のとき、私なりに最も恰好の良いと思っていたクレリックのワイシャツを着て行ったら、
「君、そのワイシャツはなんだ。」
と来た。
私が、
「これ、一番いいと思ってるやつを着てきたんですが」
と答えると、
「そんなのはね、君、バンドマンとかそういう連中が着るものだよ」
と仰った。
私が、素直に
「では、どんなものを?」
たずねると、穏やかな調子で、
「白さ。」
「でも、白じゃつまんないじゃないですか」
「カフスのデザインを自分でやるんだよ。おしゃれっていうのは、そういうものさ」
と答えて、
「ほら」と、少し斜めに切れ込みのはいった石原さんデザインのカフスを示してくれた。
▲写真 東京で開催された日本オリンピックチームの見送り式でスピーチする石原慎太郎氏(2008年7月28日) 出典:Photo by Kiyoshi Ota/Getty Images
私は何着ものクレリックをしまいこんでしまった。
選挙ポスターの続き。
もちろん私は間違っていた。圧倒的なトップ当選だった。石原さんは、なんといっても大変な人気者だったのだ。
でも、裕次郎に比べれば?
都知事出馬の際の記者会見で、冒頭「石原裕次郎の兄です」と自己紹介したことはよく知られている。
昔、『男の海 』という本(集英社 1973年)のなかに、三宅島にヨットで石原裕次郎らといっしょに出かけたときの逸話を書いている。
「東京の新聞社へ原稿校正の電話をかけに前の家にいって土間の縁先で一人座って待っていた僕を見、見物の中の一人の小母さんが、それでも小生が何たるかを存じていてくれて、
『ああ、こっちに慎太郎がいるのに、みんな裕次郎ばかり見て、誰も見てやらないよ。可哀そうに、悪いよお』と言っている。苦笑いでは申し訳ないくらいだ。三宅島島民の温かい心に涙が出たよ、全く。」(111頁)
それにしても、三島由紀夫が石原さんにどれほど嫉妬したことか。
36歳で参議院選挙に出馬し当選したこと、その選挙に実は三島由紀夫も出たかったとおもっていたことは、前回、『三島由紀夫の日蝕』(新潮社 1991年)に触れて書いた。
その引用のすぐ後に、三島由紀夫に言われたこととして、
「議席を持った後ある所であったら、
『もう君とは今まで見たいなつき合いかたにはなるまいから、最後に一つだけ忠告をしておくけど、君が将来どこかへ遊説にいく。その帰り道に海岸を通る。波の彼方に夕日が沈んでいき夕焼けが素晴らしい。そこで君が秘書官に車を止めさせて、この夕焼けをしばし眺めていこう、というようじゃ君は本物の政治家になれないよ。』
突きはなすようにいった。
『どうしてですか』
『いやそうなんだ。君は絶対に政治小説を書いたり、芸術的な政治をしようなどと思ってはダメだ。そんなことをしたら破滅するよ。』
『勿論わかっていますよ。僕は決して政治そのものを主題にした小説は書かないだろうし、芸術的な政治なんてあり得ないとも思っています。でもね。僕は公務の帰り道にでも車を止めて美しい夕焼けを眺めますよ。その感性が政治に不要なものとは絶対に思わないな。』
私がいうと、
『ま、いいだろう』
と氏はいっただけだったが。」(103頁)
そういえば、最近購入した『三島由紀夫 石原慎太郎 全体対話 』という文庫本(中央公論社 2020年)のカバーに、前回書いた三島由紀夫と石原さんの対談後の屋上での写真が大きく使われている。たしかに三島由紀夫はくだんの手袋をはめていて、ごていねいにも腰を屈めて石原さんとの身長差をわからなくしている。163センチと181センチなのだ、無理もない。男は身長が気になるのだ。
半世紀以前。眼下の道路を走っているバスはボンネット型、鼻の突き出た形のものだ。なによりも、車の数の少ないこと!
石原さんは、亡くなる直前に「最後まで足掻いて、オレは思いっきり女々しく死んでいくんだ」とご子息に述べたという。(『石原延啓、月刊文芸春秋令和4年4月特別号、101頁』)
私はその部分を読んで、ああ石原さんは三島由紀夫の死にかたのことをずっと気にしていたのだと感じた。前回に書いたとおり、三島由紀夫の死とくらべて石原さんのことを言った私に、彼は死にたくなったら石油を頭からかぶって死ぬさと答えた。今思えば、自分が死ぬなどとは思っていなかったのだろう。未だ65歳だった。当然のことだ。
彼は、自分が死ぬなどと考えておらず、ましてや石油をかぶるなどとは思いもせず、その場のことをして言ってみただけということだったのだろう。少なくとも三島由紀夫の死にかたに自分が後れを取ってしまったとは認めないぞ、ということだったに違いない。
だが、三島由紀夫のことは気にかかってならなかった。
それにしても、死の直前とはいえ、「思いっきり女々しく」は石原さんに似合わないと受け止めた向きが多いのではないか。女々しさとはもっとも遠い人だと誰もが信じていた人だからである。
しかし、実は女々しかったのかもしれない、と私は反芻してみた。
第一は、高校時代に1年留年していることである。後には、気にいらないことがあったので絵を描いたりしていた、と説明したりしている。
私はそれを信じない。『灰色の教室』の一節を思うからである。
誤解している方もあるかもしれないが、『太陽の季節』は石原さんの処女作ではない。『太陽の季節 』は1955年、昭和30年の『文学界』7月号に掲載されている。『灰色の教室』は、その前、昭和29年12月号の『一橋文芸』で活字になっている。当時の流行作家で一橋大学の先輩だった伊藤整に資金援助を頼んだという。
石原さんは、それほどの文学青年であったのである。
『灰色の教室』には、宮下嘉津彦という名の高校生が登場する。自殺の常習癖のある少年である。
その少年が、最後の自殺を図って、生き返る。そして、もう死ぬのは止めたと友人に宣言する。わけを訊かれて、
「睡眠薬を飲んで以前と同じように引きこまれるように睡くなった時、彼は何故かふと自分がインクポットの蓋をするのを忘れたのではないかと思った。それを思い出そうとしたとき、生まれて初めて何か突き上げるようなわけのわからない恐怖に襲われたのだ。
『本当に恐ろしかったよ。死ぬことがあんなに寂しい怖いものだって言うことが始めてわかったんだ。』」
と答えるのだ。
この場面、初めて読んだときから私にはとても印象に残った。インクポットなど、今の人にはわかるまいが、万年筆よりも以前の時代、人々はインク瓶にペン先をつけては少し書き、またペン先を浸すという繰り返しで手紙を書いていたのだ。
この一節は自分自身の体験なのだ、と私は感じた。今も感じる。つまり、石原さんの休学の1年の理由はそうしたことかと思うのである。間違っているかもしれない。もう誰もわからないだろうし、石原さんの遺した小説は文学史の一部なのだから、こうした思いつきも許されるだろう。もちろん、当の本人にたずねたことはない。
さらに想像を膨らませるには、『太陽の季節』が話題になるまで、石原さんは地味な生活をしていたと自ら言っていることが参考になる。高級サラリーマンを製造する大学で文学なぞに耽っている変わり者、だったのではないか、と。サッカーをやっていたと彼は自慢する。柔道では投げ技を食ってジェット機のように空を飛ぶから「ジェットの慎ちゃん」と言われていたともいう。
中学時代にディンギーのヨットを買ってもらった石原さんだ。太陽の季節を生きていたことは間違いないだろう。しかし、それは『太陽の季節』の中身とはまったくちがったものだった。あれは弟とその友人たちのことに過ぎない。
ではなぜ石原さんは『灰色の教室』を書いたのだろう?
伊藤整によれば、雑誌を印刷屋から引き取る金がないので無心に来たということである。「もらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。」
伊藤整が石原さんに感じたと書いていることである。
『灰色の教室』が『一橋文芸』に掲載されたのは、大学3年生の12月のことである。そして、編集者に薦められて半年後に『文学界』という雑誌に『太陽の季節』を書き、文学界新人賞を得た。それが直後の芥川賞受賞につながった。もう文藝春秋社の期待の路線が敷かれていたのかもしれない。伊藤整の影を感じるのは、私の考えすぎなのだろうか。
第二に、上記の「全対話」のなかで、三島由紀夫と小説家が「女々しい」ということを前提にして滑らかに話していることだ。三島由紀夫は「小説家で雄々しかったらウソですよ。小説家というのは一番女々しいんだ。生き延びて、生き延びて、どんな恥をさらしても生き延びるのが小説家ですね。」と言い、さらに、三島由紀夫は「文学は毎日毎日おれに取りついて女々しさを要求しているわけだ。」と石原さんに話す(127頁)
結局、石原さんは、なによりも小説家だった人なのだ。政治の世界で会った人にはさして強い興味を抱かなかったと石原さんが晩年に述べているのを読んで、意外にも感じ、なるほどな、と私は納得したものだ。いや、そのとおりに違いないと確認する思いだった。
ここまで書いてきて、私は石原さんが私に期待したものがなんだったのか、やっとわかったような気がした。石原さんは、私に私なりの『太陽の季節』を書くことを望んでいたのではあるまいか。だから、著名な編集者を紹介までしてくれ、小説の書き方も教えてくれた。
伊藤整の『変容』を読んだことがあるか、と電話をくれたことがあった。あれは、未だ私が約束を果たしていないまま、見捨てられる前のことだった。
「私の愛読書の一つですよ」
と答えた私に、石原さんは、
「おかしいよね。読みながら吹き出してしまうよ」と感想を述べた。
伊藤整の役を務めている石原さんがいたのかなと、勝手に想像してしまう。
石原さんは、決して私と政治の話をしようとはしなかった。
「ダメですよ、あの人は書かないから」
そう、石原さんに紹介してくれた見城徹さんに言われた。そのとおりだった。
私は、小説を書く人間は本質的に「女々しい」と思っている。
谷崎潤一郎のようであればわかりやすい。しかし、石原さんも女々しかったのだろうと思う。
しかし、石原さんは女々しさだけではない人になってしまった。あっという間に人気者になり、そのうえ政治家になってしまった。どちらも、彼が自ら選んだことだ。
その人が、政治の世界では大した人に会っていない、と回顧し、人生の最後に「女々しく死んでやる」と言い放った。
今回、前回書いた『石原慎太郎短編全集』を買ったのが、1974年の7月1日のことだとわかった。
同じ芳林堂という池袋西口にあった書店で江藤淳の『夜の紅茶』を買ったのが1972年4月17日だった。760円だった。
それにしても、石原さんの短編集に一学生の身で4000円も投じたのかと、いささかの感慨がある。2冊本で、青い色に黄色の小さな短い帯があって、なんともすきな外装の箱入りの本ではあった。10センチ近い厚みがある。なんども迷った挙句だった。今の私にとってなら超高級オーダーメイドのスーツの値段だろう。いや、余裕が違う。もっともっと大決心だったはずだ。もちろん、すぐに読み終えた。ひょっとしたら、『灰色の教室』はその本で初めて読んだのかもしれない。
(つづく)
トップ写真:2016年の夏季五輪を目指したスイスでのプレゼンテーションに先立ち報道陣の前で話す石原慎太郎氏(2009年6月16日) 出典:Photo by Ian Walton/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html