星槎グループ創業者・宮澤保夫さん死去 東日本大震災、被災地支援に尽力
上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
「上昌広と福島県浜通り便り」
【まとめ】
・3月23日、星槎グループ創業者の宮澤保夫会長が亡くなった。
・星槎グループとは神奈川県大磯町に拠点を置く学校法人・社会福祉法人・NPO法人・農業生産法人などで構成される団体である。
・星槎グループは、東日本大震災発生直後から被災地支援に携わっており、現在も医療支援・教育環境支援を続けている。
3月23日、星槎グループ創業者の宮澤保夫会長が亡くなった。享年72才だった。宮澤会長がいなければ、我々が福島県で活動を続けることはできなかった。
私が宮澤会長と知りあったのは、2006年のことだった。当時、私が在籍していた東京大学医科学研究所に財務省から出向していた中井徳太郎氏(現環境省事務次官)に「凄い人がいる」と紹介された。
中井氏の人物評は正しかった。一度お会いするだけで、その実力はわかった。それ以来、16年にわたり、私は宮澤会長に御指導、御支援いただいている。本稿では、東日本大震災直後の宮澤会長の活動をご紹介したい。
まずは、星槎グループの説明だ。北京冬季五輪フィギュアスケートで銀メダルを獲得した鍵山優真選手が今春卒業した学校といえば、ご記憶の方も多いだろう。このグループを一代で作り上げたのが宮澤会長だ。
星槎グループとは神奈川県大磯町に拠点を置く学校法人・社会福祉法人・NPO法人・農業生産法人などで構成されるグループだ。もともとは1972年、神奈川県下の私立高校の教員だった宮澤会長が、小さなアパートの一部屋に鶴ヶ峰セミナー(現ツルセミ)という塾を始めたのがきっかけだ。
その後、1985年には技能教育施設の宮澤学園高等部(現星槎学園)が開校。1999年には広域通信制高校の星槎国際高校、2005年に星槎中学校、2006年に全日制の星槎高校を開校した。また、2004年には北海道芦別市に星槎大学を開校している。
スポーツにも力をいれており、前出の鍵山選手以外に、星槎国際湘南高校の女子サッカー部は2019年に全国制覇した強豪だし、小久保真旺氏は、星槎国際川口高校在籍中の2020年に史上最年少で全日本選手権フェンシングサーブルで優勝した。
東京五輪では、エリトリア、ブータン、ミャンマーの選手団を小田原市とともに受け入れた。これは宮澤会長が長年支援してきた国だ。ブータン王室は来日の度に宮澤会長を訪問するし、2015年の北京世界陸上の男子マラソンで優勝し、リオ五輪で4位に入賞したゲブレスラシエ選手は、宮澤会長が支援した。北京世界陸上の優勝インタビューでは、宮澤会長への感謝を述べている。
ただ、星槎グループの「本業」はスポーツではない。学習障害や発達障害を抱える生徒を対象とした一貫教育だ。星槎とは「星のいかだ」という意味で、星槎大学の教育理念には「多様な文化、多彩な人生が交錯して形作る星座は科学と学びのロマンを伴い世界の道しるべである。地域社会や国際社会の多くの人々に役立つ人となるために、生活の中で生涯学びつつ、大きな槎(いかだ)たらん」と書かれている。一人ひとりの個性を重視した教育を目指している。
このように書くと、宮澤会長は「やりてのビジネスマン」のようなイメージを与えてしまうが、実態は違う。極めてパワフルで、カリスマ性を備えた人物だ。面倒見がいいため、彼の周囲には多くの人々が集まる。
星槎グループが、スポーツの分野で急成長したのも、宮澤会長の人柄によるものだ。かつてサッカー部を支援したのは奥寺康彦氏だし、桐蔭学園野球部監督を務め、元巨人軍監督の高橋由伸氏などを育てた土屋恵三郎氏が、現在、星槎国際湘南高校で監督を務めていることなど、その典型だ。何を隠そう、私も宮澤会長の人柄に惹かれ、お付き合いをさせて頂いている。
星槎グループの特徴は、宮澤会長の周囲に集う先生方が優しいことだ。そして、行動力もある。東日本大震災では、その行動力が遺憾なく発揮された。震災直後の2011年3月17日から、福島県郡山市と仙台市にある学習センターに救援物質を運ぶべく、星槎グループの生徒や職員が被災地に入った。幸い、何れの学習センターも被害は軽かったが、そこで「南相馬市が酷いことになっている」と聞きつけたスタッフは、そのまま南相馬市へと向かった。防災無線を駆使して、現地の情報を収集した。
宮澤会長は無線マニアだ。「災害時には防災無線以外はあまり役立たないんだよ」という。星槎グループは、我々では知り得ない様々な情報を入手していた。南相馬市に入った、星槎グループの先生たちの行動力・生活力は凄まじかった。三橋國嶺氏、大川融氏、山越康彦氏を中心とする先遣チームは市内に入ると即座に、「扇屋」というホテルに宿泊し(写真1)、翌日は南相馬市役所の隣に部屋を借りて、活動拠点を確保した。
丁度、このころ、当時、東京大学医科学研究所で私が指導する大学院生だった坪倉正治医師(現福島県立医科大学教授)が浜通りに入り、星槎グループと合流している。先遣隊に続き、宮澤会長自らが、浜通りに入っていると聞いていたので、坪倉医師が東京を出発する際、「現地に入ったら、宮澤会長に携帯電話で連絡するように」と伝えた。
当時、南相馬市の住民の多くは避難しており、周辺の店は開いていない。旅館が提供したのは朝ご飯だった。星槎グループの先生方は、食事、水、ガソリン、生活雑貨を何処からか調達してきた。我々は、ロジをすべて星槎グループの先生方にお世話になった。
宮澤会長は、星槎グループの先生たちに「被災した方から我々が頼まれた事に対しては全力でやれ。「それはできません」って簡単に返事するな。」と繰り返していた。
この姿勢は、我々にも同様だった。その後、相馬市・飯舘村・川内村などで健康相談会や、相馬市・南相馬市での放射線説明会を行ったが、そういった活動への協力を依頼しても、「そうか、それは本当に良いことだね。絶対に我々は何があっても全面的に支援するからね。」と約束してくれた。そしてその言葉通り、星槎グループの皆さんにロジ面など多大なご支援をいただいた。
宮澤会長は、震災・津波で傷ついた子どもたちの支援、カウンセリングに協力したいと考えていた。子どもたちの精神的障害(PTSD)や教育現場の混乱は、相馬市より南相馬市の方が遙かに酷かった。しかしながら、南相馬市役所や南相馬市の教育委員会との調整がつかなかったようだ。星槎グループの活動は、最終的には相馬市に集約していく。
4月中には東大医科研の私たちの研究室と共同で、相馬市生涯学習センターにオフィスを設けた。そして、ここを拠点に、星槎グループは相馬市教育委員会と連携して、相馬市内の小中学校の生徒のカウンセリングを始めた。特に津波被害の大きかった4つの小中学校を重点的にケアした。その中心は、カウンセリングの専門家である安部雅昭先生と吉田克彦先生だった。安部先生は、2011年だけで生徒103件、教師85件のカウンセリングをこなした。彼らの活動は現在も続いている。
星槎グループの相馬市でのもう一つの活動は、通称「星槎寮」と呼ばれる宿舎の運営である(写真2)。2011年4月から、相馬市の中心部に位置する、キッチン・ユニットバス・和室が数部屋ある一棟を、星槎グループが運営してくれることとなった。
星槎グループの事務長である尾﨑達也氏が、「寮長」に任命され、合宿所の管理を取り仕切きることとなった。坪倉医師は、尾崎寮長の元、ここの住人となった。そして、星槎寮を拠点に活動を拡げていった。
多い時には一度に男女あわせて20名近くの医師、学生たちが、入れ替わり立ち替わり宿泊した。この頃から、復興需要が高まり、相馬市内の民宿やホテルはいつも満室となっていた。震災後、各地から定期的・不定期に相馬を訪れる医師達やボランティアの学生達にとって、宿泊先の確保は頭の痛い問題だったが、合宿所があるお陰で、「宿が取れないから参加できません」という事もなかった。日中はオフィスで、夜は合宿所での深夜までのディスカッションや飲み会を通じて、さらにネットワークを深めることができるようになった。このようなネットワークが、相馬市の復興を支えていく。
これが宮澤会長の生き方だ。彼は具体的な行動をもって、如何に生きるべきかを示してくれた。私は、彼から多くを学んだ。いくら感謝しても、しすぎるということはない。ご冥福を心から祈りたい。
▲写真1 ホテル扇屋の前にて。市中の店は殆どが閉店していた。唯一、営業していた焼き肉屋で食事をとったあと、星槎グループのスタッフがコーヒーを入れてくれた。人通りはなく、車も通らなかった。左から山越康彦氏、三橋國嶺氏、宮澤保夫会長。坪倉正治氏、一條貞満氏(2011年4月12日) 提供:星槎グループ大川融氏
▲写真2 2011年5月4日、星槎寮での食事光景。食事は星槎グループの先生方が準備してくれた。右から宮澤会長、左端が筆者。
トップ写真:2011年7月16日、福島県川内村の健康診断会場にて。左から筆者、宮澤会長(筆者提供)
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この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。