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.社会  投稿日:2024/2/25

常磐病院尾崎章彦医師、松田妙子賞を受賞


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・常磐病院外科医、医療ガバナンス研究所理事尾崎章彦医師が、生涯学習財団から松田妙子賞を授与された。

松田竹千代松田妙子・佐藤玖美氏と続くファミリーの伝統は、社会のため予定調和を破ることを厭わないこと。

・東京大学医学部卒という「エリート」の王道を離れ、福島で活動し、世界に発信している尾崎医師の姿に彼らは共感した。

 

常磐病院の外科医で、医療ガバナンス研究所の理事を務める尾崎章彦医師が、生涯学習財団から「松田妙子賞」を授与された。2月8日、東京アメリカンクラブで開催された「故・松田妙子三回忌」の会場で、尾崎医師は表彰され、私も出席した。当日、日中比較文化論の専門家である張競・明治大学教授が論評し、東日本大震災後の福島での活動が評価されたと説明した。

尾崎医師は福岡県出身。2010年に東京大学医学部を卒業し、その後、福島県会津若松市の竹田綜合病院にて初期研修を終えた。

私との縁は、彼が学生時代に当時、東京大学医科学研究所内で運営していた私どもの研究室で研修したからだ。それ以来、折にふれ、相談に乗ってきた。

初期研修を終え、千葉県内の基幹病院で外科医として勤務していた尾崎医師は悩んでいた。このまま母校の東大に戻り、外科医としての経験を積んでいくことに不安を抱いていた。彼は医師一年目の終わりの頃に東日本大震災を経験した。その際、「医師として、自分は何ができるのか」を考えたという。

彼から、久しぶりに連絡を受けたのは、この頃だった。私は「被災地の南相馬市立総合病院で働くように」と勧めた。我々のチームは、震災・原発事故直後から浜通りに入り、診療や被曝相談などの活動を続けていた。震災を契機に高齢化が一気に進み、医療・介護体制に大きな負担がかかっている状況は、日本の将来を髣髴させた。

尾崎医師には長い医師生活が待っている。多少回り道になろうが、被災地のリアリティを皮膚感覚として知るべきと、私は考えた。

2014年10月、尾崎医師は南相馬市立総合病院に外科医として赴任した。18年1月、南相馬市内の大町病院、同年7月、いわき市内のときわ会常磐病院に異動し、乳腺外科医として診療を継続している。私が相談を受けてから10年間、浜通りで診療を続けている。

福島の被災地で診療を続けることは、東京大学医学部を卒業した外科医にとって「王道」を外れることになる。彼は腹を括って、福島で生きることを決めたのだ。

腹が据わった人間は強い。この間、彼は大きな実績を挙げた。例えば、乳腺診療だ。

現在、勤務している常磐病院乳腺外科の外来延べ患者数は尾崎医師が赴任した2018年の1642件から2023年には6777件に4.1倍に増加した。同期間に入院患者数は527人から2777件と5.3倍、乳がん手術件数は34件から92件と2.7倍に増加している。

いわき市は全国で最も医師不足が深刻な都市の一つだ。2020年末現在、人口10万人あたりの病院勤務医数は98.5人で、中核市42市の平均(155.3人)の63%である。

尾崎医師が常磐病院に赴任し、乳腺外科を強化した結果、これまで郡山市や仙台市、あるいは東京にいかなければ治療を受けることができなかった乳がん患者たちに、治療を受ける機会を提供したことになる。

尾崎医師の活躍は診療だけではない。研究でも大きな実績を残した。浜通りの震災・原発事故に関する研究から、医師と製薬企業の利益相反、金銭問題に関する研究、東南アジア、アフガニスタン、中国との共同研究など、さまざまな分野の研究を進め、これまでに350本以上の英文論文を発表している。

診療の傍ら、これだけ多くの論文を発表できたのは、彼が後輩の指導に力をいれたからだ。その象徴が北海道大学医学部5年生の金田侑大君である。春休みや夏休みの長期休暇の度に、いわき市や都内で尾崎医師と面談し、普段はZOOMなどを使いながら、指導を受けた。その結果、2023年の一年間で50報以上の英文論文・論考を発表している。その中には英『ネイチャー』誌など一流誌も含まれる。

臨床、研究、指導での実績が認められ、2021年12月、尾崎医師は福島県立医科大学の特任教授(非常勤)に就任した。若干36才での就任である。

なぜ、生涯学習財団が尾崎医師を表彰したのだろうか。私は、尾崎医師の行動が、その創業者である松田妙子氏の理想を体現しているからと考えている。

松田妙子氏は、1927年生まれの実業家だ。その人生は『旺盛な欲望は七分で抑えよ 評伝昭和の女傑松田妙子』(鈴木れいこ著、清流出版)に詳しい。ご興味のある方は、一読をお勧めする。かの三島由紀夫との恋愛、戦後の日本の復興を米国に伝えるため広報会社コスモPRの設立、日本の住宅事情を改善すべく日本ホームズを立ちあげ、「戦後の住宅産業界に徒手で乗り込んで成功した(前著より)」エピソードが紹介されている。

彼女のバイタリティは、どこに由来するのか。筆者の鈴木氏は、父親である松田竹千代氏(1888~1980年)の存在を強調する。大阪の泉南で生まれ、府立岸和田中学(現岸和田高校)を中退し、渡米した。米国ではニューヨーク大学で学ぶ傍ら、コックや運転手として社会経験を積む。当初、実業家を目指していたが、スラム街や人種差別に触れ、社会福祉事業を志すようになる。12年後に帰国。日本では国政にも進出し、衆議院議長や文部大臣などを歴任する。「社会福祉事業に一生を捧げた政治家」と称される。

松田竹千代氏、松田妙子氏いずれも公を強く意識していたのだろう。だからこそ、当時、日本社会が必要とした事業に傾注した。

彼らが人生を通じて大切にしたのは、学びつづけることだ。松田妙子氏は、73才で東京大学工学部から「日本近代住宅の社会史的研究」というテーマで博士号を与えられている。また、1986年には「学び続けること」、「社会と関わりを持つこと」をサポートするため、生涯学習開発財団を立ち上げ、33年間、理事長を務め、向学心ある多くの人々をサポートした。

松田妙子氏の後を継いで、生涯学習財団の理事長に就任したのは次女である佐藤玖美氏だ。米国生まれで、ボストンのマッキンゼー・アンド・カンパニーで幹部を務めた人物だ。現在は母親が立ち上げたコスモPRの社長も務めている。筆者も面識があるが、優秀かつチャーミングな女性だ。

松田竹千代・松田妙子・佐藤玖美氏と続くファミリーの伝統は、社会のために、予定調和を破ることを厭わないことだ。東京大学医学部卒という「エリート」の王道を離れ、福島で活動し、世界に発信している尾崎医師の姿に共感したのだろう。それが、今回の受賞理由だと思う。

東日本大震災から13年が経過した。その記憶は風化しつつある。だが、現在でも、佐藤玖美氏のような人がいて、福島を支援している。一人でも多くの人々に、このことを知ってもらいたいと思う。

トップ写真:右が尾崎医師、左が張教授 出典:筆者提供




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

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