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.国際  投稿日:2022/5/24

ロシア戦車が惨敗した理由(上)気になるプーチン政権の「余命」その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・「戦車大国」ロシアの戦車がウクライナ侵攻では多数撃破された。旧日本陸軍が抱えていた問題との共通点が見える。

・戦車T-32は「大祖国戦争」を勝利に導き、賞賛され続けている。今年の対独戦勝記念日の行進にも参加。

・ウクライナ侵攻で注目されたT-72。かつて英国製チーフテン戦車を多数撃破し名を挙げたが、もう40年前の話。

 

ロシアと言えば、旧ソ連邦時代から「戦車大国」と称されてきた。

ところが今次のウクライナ侵攻においては、NATO諸国が供与した対戦車ミサイルなどにより、多数の戦車が撃破されている。一説によれば、ロシア軍は5月10日までに1000輛もの装甲戦闘車両を喪失しており、これは即応戦力のおよそ半数にものぼるという。

どうしてこのようなことになったのか、という問題を掘り下げて行くと、そこには旧日本陸軍が抱えていた問題との共通点が見えてくる。

自身も学徒動員組の速成戦車兵であった司馬遼太郎が、幾度となく書きとどめていることだが、煎じ詰めて言えば、旧日本軍の戦車というのは、初期の段階でこそ世界水準と呼べるものであったのだが、経済力の限界から、欧米諸国のように戦車を次々にモデルチェンジすることができず、時代に取り残された戦車を後生大事に使うほかはなかった。米国のM4を性能面で上回る戦車の開発にも乗り出したが、試作段階で終戦となっている。

戦時中の日本人、特にインテリは、ある程度の知見は得ていたようで、司馬遼太郎自身、戦車隊に配属されたと友人に告げたところ、

「戦車じゃ、死ぬなあ」

などと言われ、自分でもほとんど諦観していたそうだ。

当時の日本戦車は、攻撃力・防御力ともに米ソの新鋭戦車には遠く及ばず、数の差も圧倒的で、なすすべもなく全滅させられるのは必定だと考えられていたのである。

実際問題として、沖縄に上陸した米戦車を日本軍がどう迎え撃ったかと言えば、歩兵が爆弾を抱えて車体の下に飛び込むという自爆戦法であった。

これに対してソ連軍は、ナチス・ドイツ軍と切磋琢磨しながら、有名なT-34をはじめ新型戦車を次々に開発し、驚くべき早さで大量生産して実戦に投入していった。

それまで戦車と言えば、味方歩兵への火力支援を主任務とする、重戦車もしくは歩兵戦車と呼ばれるタイプ、敵戦車との戦闘を主任務とする中戦車、そして偵察などに用いられる軽戦車もしくは巡航戦車と呼ばれるタイプがあったのだが、T-34は中戦車に分類されていたものの、どのような任務もこなせる優れもので、史上初めての主力戦車(メイン・バトル・タンク=MBT)と称されている。

第二次大戦後には、兵器の発達と戦術の多様化が並行して進み、水陸両用戦車や輸送機からパラシュートで投下できる空挺戦車が登場した。これらは軽戦車が形を変えてよみがえったものと考えてもよいが、単に戦車と呼ぶ場合は、おおむねMBTを指すというのが軍事用語として常識に近いものとなっており、その先鞭をつけたのがT-34というわけだ。

5月9日には、モスクワで戦勝記念日(ナチス・ドイツとの戦争に勝利した日)のパレードが行われたが、今年もT-34の一群が行進に参加していた。「大祖国戦争」を勝利に導いた戦車であると、ソ連邦崩壊後も賞賛され続けているわけだ。

▲写真 対独戦勝記念日に向け、リハーサルの行進で展示されたT-34/85戦車(2022年5月7日) 出典:Photo by Contributor/Getty Images

その後の戦車開発の歴史を逐一フォローして行くとなると、とても紙数が足りないので、今次のウクライナ侵攻で、よくも悪くも注目されたT-72にスポットを当ててみよう。

1973年から量産が開始された、ソ連邦地上軍(陸軍とは言わなかった)のMBTであるが、時代を先取りする新機軸をいくつも採用していた。

代表的なものが、自動装填装置と複合装甲である。

まず複合装甲から説明させていただくと、読んで字のごとく複数の素材を組み合わせて造った装甲板のことだが、二枚の鋼板の間に合金やセラミックや強化プラスチックなどの素材を挟んだ「サンドイッチ構造」にすることで、均質圧延鋼板(一枚板の装甲板と思えばよい)に比べ、耐弾性がかなり向上する。最近では合金とセラミックを複雑な形に組み合わせた「ハニーカム(蜂の巣)構造」も実用化されている。

▲写真 ロシア製戦車T-72(2015年5月9日 ウクライナ・ドネツク) 出典:Photo by James Sprankle/Getty Images

もうひとつの自動装填装置だが、こちらも読んで字のごとく、砲弾を発射した後、次弾の装填作業を機械化したものである。それまでの戦車は、車長、操縦手、砲手、そして装填手と計4名の乗員を必要としていたが、T-72では装填手が不要となったため、乗員3名で運用できるようになった。

こうした新機軸を採用した一方、エンジンは高出力のガスタービンやマルチフュエル(ディーゼル油以外にも、ガソリンや航空用燃料で動かすことができる)ではなく、信頼性の高いディーゼルを採用した。同世代の西側戦車に比べて軽量コンパクトでもあり、不整地での機動性能も良好であった。

さらには、車高が低く抑えられ、砲塔はお椀を伏せたような形になっている。

これは大戦後の旧ソ連製戦車に共通するデザインで、被発見率・被弾率ともに低い上、避弾径始(ひだんけいし)の点でも優れていた。避弾径始というのは、銃砲弾が直角に命中した場合は、その貫通力をまともに受けるのに対し、斜面や曲面で受けた場合はかなり減殺される効果のことである。当たりようでは、信管が作動することもなく、滑って飛び去ってしまうことさえあるのだ。

主砲は125ミリ滑腔(かっこう)砲。

それまでの戦車砲は、砲身内部に溝が刻まれ、砲弾は高速回転しつつ撃ち出すことによって弾道を安定させるライフル砲が主流だったが、ソ連邦地上軍はいち早く滑腔砲を採用した。ライフルが刻まれていない代わりに砲弾に安定翼を取り付けるというコンセプトで、砲身寿命が長くなる利点がある。ちなみに現在では、自衛隊を含む西側の戦車でも滑腔砲が主流となっている。

加えて前述の自動装填装置の採用は、戦場生存性の向上にも寄与すると考えられていた。

被弾率がもっとも低い車体底部に砲弾を並べて格納し、弾頭と装薬を自動的に装填してゆくという方法は、ただ単に砲弾を車内に並べていた西側の戦車より、はるかに安全だとされていたのである。

ことほど左様に、攻撃力・防御力・機動性のバランスが取れた傑作戦車と称されたのがT-72で、1980年に勃発したイラン・イラク戦争では、イラク軍のT-72が、イラン軍の英国製チーフテン戦車を多数撃破し、実戦でも名を挙げた。T-72より10トン以上も重く、分厚い装甲を誇るチーフテン戦車だが、125ミリ砲弾はこれを正面からやすやすと貫通することができたという。

ただしこれは、40年も前の戦歴である。

その後に起きたことを、次回解説しよう。

(その3につづく。その1

トップ写真:高速道路で車を止めて、破壊されたロシア軍の戦車を撮影する人々(2022年5月20日 ウクライナ・キーフ) 出典:Photo by Christopher Furlong/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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