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.国際  投稿日:2022/3/20

独裁者の計算と誤算(上)「プーチンの戦争」をめぐって その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・プーチンは「ロシア帝国再興」に向け、「今ウクライナに侵攻してもNATOは動かない」との確信を得た上で、軍事行動に打って出た。

・プーチンは、スラブ・正教会文化圏に属する国を糾合した新たなロシア連邦を再構築する、との世界観を持つ。

・いかなる勝算のもとウクライナに侵攻したのか、いかなる誤算があったのか、冷静に検証する必要がある。

 

ウクライナは伝統的にロシアの一部であった

これが、ロシアのプーチン大統領の言い分である。

たしかに「ウクライナ」とは、現代ロシア語では「小ロシア」の意味だと辞書にあるし、語源をさかのぼると、古いスラブ語で「国境地帯」といったほどの意味になるようだ。

もともと両国はルーシというひとつの国から生まれた、いわば兄弟のような関係にある。

882年にキエフを首都として成立し、大半の文献に「キエフ大公国」と表記されているが、正式な国名は「ルーシ」で、これがロシアの語源であることは言うまでもない。ただ、日本の読者の便益を考え、本稿でも以下「キエフ大公国」の表記を採用する。

スラブ人やデンマーク人などを糾合した国であったと言われるが、支配層はいわゆる征服王朝で、その源流はヴァイキングに行き着く。ヴァイキングというと海賊のイメージが強いが、彼らは漁民でもあり、交易が大きな収入源でもあった。ちなみに古代日本の倭寇も同様で、かつては海賊行為も交易の一手段に過ぎなかった。それだけの話である。

どうしてヴァイキングが黒海沿岸までやってきたのかと言うと、その南にあったビザンチン帝国との交易を求めてのことで、具体的には、北方から毛皮や蜂蜜、そして奴隷、南方からはワインや鉄器をもたらす交易の中継地として栄えたのが、現在のキエフという街であったというわけだ。ちなみに当時は、モスクワもサンクトペテルブルク(ソ連邦時代はレニングラード=プーチン大統領の出身地)も、都市と呼べるほどのものではなかった。

前述のように、キエフ大公国主としてスラブ人が構成する国家であったが、そもそもスラブ民族とはもっぱら言語学上の分類に過ぎず、人種的には多種多様であった。

国の礎を築いたのはオレグという大公だが、その生涯は謎に包まれている。生没年さえはっきりせず、死因についても、東方遊牧民との戦いで殺害されたとも権力争いで毒殺されたとも言われ、定説がないのだ。

いずれにせよキエフ大公国が歴史の中で存在感を示し始めるのは、オレグの息子ウラジーミル1世の治世においてである。彼は三男だが、三兄弟の後継者争いに勝ち残った。

987年から988年にかけて、ビザンチン帝国で大規模な内乱が起きたのだが、この際ウラジーミルは6000名の兵士を派遣して皇帝を助けた。その見返りに、皇帝の妹を妃に迎えることになったのである。

彼はもともと無宗教だったが、この結婚を機に、ビザンチン帝国の宗教であったキリスト教に入信し、キエフ公国においてもキリスト教を国教とした。当時の感覚で言うなら、これで「文明国」の仲間入りを果たしたことになったのであろう。

最盛期には黒海の北方一帯からバルト海沿岸までを版図としたキエフ大公国であったが、内部分裂で弱体化し、ついには1241年、モンゴルの軍門に降った。

ただ、モンゴルの支配はまことに穏健なもので、年貢さえ納めれば信仰の自由は保障された上に、教会(キリスト教会は11世紀にローマのカトリックとコンスタンチノープル=ビザンチン帝国の正教会とに分裂していた)に対しては、その年貢さえ免除していた。

そうした事情もあって、キエフ大公国は歴史の表舞台から消えることとなったが、キ正教会の文化的伝統は生き残った。

そして1325年、北方で興った「モスクワ大公国」が、急速に軍事力を強化してモンゴルに対する年貢の支払いを拒否し、事実上の独立を果たした。その後、正教会の総本山もモスクワに移される。

このモスクワ大公国こそが後の「ロシア帝国」で、詳細まではとてもここで書ききれるものではないが、18世紀以降、ロシアは自らをスラブ文化圏の盟主と位置づけ、ウクライナを属国扱いするようになった。

公平を期すために述べておけば、ロシアこそがキエフ大公国の正統な後継者である、との学説を開陳する歴史家はロシア内外に数多くおり、必ずしもプーチン大統領ひとりの勝手な思い込みとは言えない。ただし異説も多く未だ「諸説あり」の状態にあるというのが本当のところだ。

いずれにせよこのような「歴史問題」が、武力で現状を変え、独立国の主権を侵害する大義名分になど、なろうはずがない。

このように、プーチン大統領の今次の行動が、およそ常識からかけ離れたものであったことから、彼は精神に異常を来したのだと見る向きもあった。

私は、この見解は事実に反するものと考える。

彼は、10年単位で「ロシア帝国再興」の構想実現に向けての準備を続け、具体的な経緯は本シリーズを通じておいおい検証して行くが、

「今ウクライナに侵攻してもNATO(北大西洋条約機構)は動かない

との確信を得た上で、軍事行動に打って出たのである。

言い換えれば、彼は精神に異常を来したどころか、いたって怜悧な戦略眼の持ち主であるに違いない。ただ、その世界観が100年単位で古い、ということは、これまた間違いない。

具体的にどういうことか。

ウラジミール・プーチンは1952年生まれ。自身は「極貧の幼少期を過ごした」と語っているが、実際には父親が工場労働者として給与所得を得つつ、情報機関(悪名高いソ連邦のKGBなのか、詳細までは不明)の下働きもしていた。この「副業」で結構な収入を得ていたと、複数の「非側近」が証言している。

ともあれ成長したプーチンは、レニングラード大学を卒業して前述のKGBに職を得たが、当時の評価もまちまちである。閑職しか与えられなかった、と言う人も多いが、在籍16年で中佐まで進級している(KGBにも軍隊と同様の階級制度があった)ところを見ると、それなりに仕事はできたのだろう。

▲写真 ロシアの攻撃によって甚大な被害を受けた住宅団地(ウクライナ・キエフ、2022年3月18日) 出典:Photo by Chris McGrath/Getty Images

いずれにせよ、彼の生涯を詳細に後追いするのが本シリーズの主眼ではなく、ここはごく簡単な説明でおゆるし願うが、ソ連邦の崩壊を経験した彼は、新たに誕生したロシア連邦が、西側から常に侮られていると考えるようになったらしい。

こうした下地があって、地下資源の開発などでロシア経済が立ち直ってくるとともに、ソ連邦の版図すべては無理でも、スラブ・正教会文化圏に属する国を糾合した新たなロシア連邦を再構築する、という世界観を持つに至ったと衆目が一致している。

スラブ・正教会文化圏に属する国とは、すでにロシアの属国と化していると評される、ベラルーシ(白ロシア)、ウクライナの他、バルト三国までがこれに該当する。

中でもウクライナは、新年特別号でも述べさせていただいたが、NATO加盟を画策するなど「新欧米・脱ロシア」に傾斜していた。ロシアとしては重大な脅威と受け取らざるを得なかったのだ。

詳細は、軍事ジャーナリストの淸谷信一氏が『ロシアにも三分の理』という秀逸な記事を本誌に寄せているので、そちらに譲るが、私も清谷氏も、武力で現状の変更を試みる行為は断じて許されるものではないと考えるし、この点に異論を唱える人もいないであろう。

そうではあるのだが、やはり戦争というものは、当事者のそれぞれに「正義」があり、勝利を博するための戦略があるからこそ起きるものであると、歴史が教えるところだろう。

ただただプーチンが悪い、あいつは頭がおかしい、と連呼するだけでは、なにも解決しない。彼はいかなる勝算のもとウクライナに侵攻したのか、またそこにはいかなる誤算があったのかを、まずは冷静に検証する必要があるだろう。

(つづく)

トップ写真:クリミアの併合記念日コンサートで挨拶するプーチン露大統領 (2022年3月18日、ロシア・モスクワ) 出典:Photo by Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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