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.社会  投稿日:2022/6/14

「石原慎太郎さんとの私的な思い出5」 続:身捨つるほどの祖国はありや 18


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・石原さんにとって伊藤整は特別な存在であった。

・「灰色教室」を目にとめた浅見淵氏に促されて執筆した「太陽の季節」で石原さんは芥川賞を受賞したが裏には伊藤整の存在があった。

・伊藤整のお蔭で石原さんは、昭和の戦後を象徴する人物になることができた。

 

石原さんはときどき、なんの前触れもなく、電話をくれた。

電話をするそのしかたに、石原さん独特のやさしさ、繊細さが現れていたことは以前に書いた。

ある時のも、

「伊藤整の『変容』を読んでみるといいよ」

と電話がかかってきたことがある。

私は、待ってましたとばかり「『変容』は私の大好きな小説です。もうなんども読んでます。」と答えた。そのとおりだったからだ。行徳に住んでいたことのある私には、未だ大手町までしか開通していなかった東西線が描かれている『変容』には、特別の思い入れがあった。

「大手町で終わりになっている電車は、東西線という名のとおり、近い将来大手町から東に伸び、永代橋の付近で墨田川の底を潜り抜け、深川に入りそこからさらに東に進んで、荒川放水路を越え、海苔や貝類の産地の行徳の当たりを過ぎて、千葉県の船橋の辺に出る予定になっている。」とある。私は行徳の二字の横に鉛筆で線を引いていた。

「そうかい。」

石原さんは我が意を得たりという感じで、饒舌だった。

「あれ、おもしろいよね、読んでいて思わず、なんども笑ってしまう。なんとも愉快な大人の小説だ。」

という調子だった。

「伊藤整って人は実に女好きの人でね。」

私には、その話は意外ではなかった。私は伊藤整の全集を読んでしまうほど伊藤整のことが好きだったのだ。伊藤整がどれほど異性との関係を重要な人生の一部と考えていたのかは、作品を読めばすぐにわかる。

しかし、今になって思い返してみると、石原さんが伊藤整の『変容』を持ち出して私に教えたいと思ったのには、石原さんなりの特別の理由があったのだと思う。

その時の電話の会話で、私は伊藤整の『氾濫』についても触れたような気がする。私が伊藤整を好きになったのは『氾濫』からだ、と。

伊藤整の『変容』を読んだことのない人のために石原さんにとって面白かったに違いないところを紹介すると、先ず題材は、色好みの還暦近い画家、龍田北冥という男の、過去と現在の色事の果てしない連続、曼陀羅模様とそのなかでつかんだと思っている芸術論、人生論である。その模様の一つとして、先輩である岩井透青という名の、古稀になってもう性的能力のなくなった画家が登場して、龍田北溟に教訓を垂れる場面がある。

「『龍田君、七十になって見たまえ。昔自分の中にある汚れ、欲望、邪念として押しつぶしたものが、ことごとく生命の滴りだったんだ。そのことが分かるため七十になったようなものだ、命は洩れて失われるよ。生きて、感じて、触って、人間がそこにあると思うことは素晴らしいことなんだ。語って尽きず、言って尽きずさ』

彼は私を脅かすように睨みつけ、やがて私を羨むように目をそらしたし、失われた生そのものを感じてはぎしりするような、怒った顔になった。彼の取り巻きの連中が私に彼をまかせてたちのいている理由も、この老人の、このような激しさにあるようだった。」

(『変容』 299頁 岩波文庫版)

私は『変容』を20代のときに読んだ。

伊藤整の作品を始めて読んだのは大学生のときで、ソニーの7インチしかない小さな白黒テレビで『氾濫』の映画を観てからすぐ後のことだった。映画の『氾濫』は、左幸子と佐分利信が演じていて、男に金を無心する左幸子が、二心をなじられて居直る場面がとても印象的だった。左幸子をとても美しい人だと思った。

それで、さっそく新潮文庫の『氾濫』を買い求めたのだ。

書斎の本棚から古びてしまったその本を取り出して見ると、奥付の上に鉛筆で1971年の2月27日に読み終えたと記載があるから、昭和46年、大学1年のときのことになる。

二度目に読んだのは2003年2月14日とある。なんと54歳になってまた読み返しているようだ。

記録は書いておくもののようだなと改めて思う。

それだけではない。この本は、まだ私にとって一冊々々の本が貴重で、私にも時間があったことを示すように、パラフィン紙で紙の表紙をきれいにくるんである。

私は、ある時期まで、そういう習慣だったのだった。

本は、買って、持って、本棚に飾っておくものだ。つくづくそう思う。

それにしても、どうして間に32年もおいて、また読み返したのだろうか。54歳の私はとても忙しかったはずだ。

きっと、石原さんに違いない。石原さんと伊藤整の話をしたのが2003年の2月14日のすぐ前だったのではないか。そうに違いない。

『変容』の話、石原さんがいかに『変容』を愉しんで読んでいるかを話してくれた後、私が『氾濫』の話を出して、それで自分で懐かしくなったのだろう。あるいは、『氾濫』を書く際に伊藤整が世話になったという奥野健夫の話も出たのかもしれない。映画『氾濫』の話を私はしたかもしれない。しかし、左幸子や佐分利信の事が話題になった記憶はない。あれば覚えている。

それにしても、ああやって石原さんに電話をいただいて伊藤整の小説について話をしたのは、私が54歳のときだったのだ。

つまり、石原さんは71歳だったことになる!

岩井透青、実は伊藤整の名を作者が変形してまぎれこませた副主人公の年齢に石原さんがあったとは。

石原さんが、性的に「お前はまだ役に立ちそうだが」と54歳の私を羨ましく思ったはずはない。長い間にわたって石原さんの最も身近にいた見城さんによれば、彼は80歳を超えてなお性的な生活を大いにエンジョイしていたという。さもありなん、である。

石原さんにとって、伊藤整は特別な存在である。

石原さん自身が書いているが、石原さんは一橋大学に入ってどうしても学部の講義になじむことができなかった。他方、当時廃刊になっていた「一橋文藝」という同人誌を友人だった西村潔氏と復刊すべく、当時流行作家だった伊藤整氏のところに2度にわたって金の無心に行って、その復刊第一号の「一橋文芸」に書いた『灰色の教室』が、文学界誌の同人誌評をやっていた浅見淵氏の目に留まり、数行のコメントが印刷された。石原さんの人生に運命の女神が微笑みかけた、いや、強く抱きしめた瞬間である。

その直後、『太陽の季節で芥川賞を取ってスターになったことは周知のところだが、そのころ、石原さんは自分の身の置きどころについて伊藤整に相談している。

「なにがなんだか、急に人気者になってしまって、あちらこちらから声がかかってくる。こんなときにどうしたら良いのでしょうか?嬉しいような、怖いような」と石原さんが教えを請ったら、伊藤整は、

「いい機会なんだから、飛んだり跳ねたり、好きに暴れまわったらいい。それで失敗したら、そのことを、また小説にかけばいいのだから。小説家というのはそういう職業なんだから」と助言した。

なるほど、と納得した石原さんのその後は、往くところ可ならざるはなし、といったところだろう。日生劇場を同時の金で45億円もかけて作るのを、五島昇氏の仲立ちで日本生命の弘世現社長に頼まれたのは、なんと30歳のときである。

村野藤吾の設計の日比谷にある建物は、私も日本生命の仕事でなんども出入りしたことがある。ほんの少しの修理にも設計者の承認が要るという、とんでもない建物だと間接に聞いたこともある。

私にとっては、その日比谷にあるビルで、弁護士と依頼者として、一対一で交わした宇野郁夫社長との対話は忘れがたい人生の宝物である。

今回、その村野藤吾について調べていて初めて広島の平和記念聖堂が彼の設計にかかることを知った。私が小学校の5年と6年の2年間を過ごした幟町小学校のすぐ前にあるカトリックの教会で、私は図画工作の授業のたびになんども写生したものである。

石原さんは、昭和33年に『亀裂』を書いている。偉大な失敗作であると言われている作品である。私は昭和46年7月7日に新潮文庫で読んだ。21歳である。駒場の授業に、体育実技の他は出席が取られないのをいいことに、まったく学校には行かないでいた。6畳の木賃アパートで夜昼逆転した生活のなかで、本に溺れるようにして読んだのだろう。結核を患っている副主人公の女性が血を吐きながら主人公の都築明と性行為をする場面があったのが、今でもはっきりとした記憶に残っている。

石原さんが定宿にしていたとおぼしき御茶ノ水にある山の上ホテルの一室が場面になっている。

夫を亡くした母親が亡き夫の兄と男女関係にある、しかし「あれは俺の知ったことではない」、「どうでも良い」と独り言った石原さんとおぼしき主人公、都築明は、「“それよりもこの俺と言う、手前のことだ。今夜俺は何もせずただあちこち呑んだくれ、こうして今ベッドの上に靴をはいたまま転がっている。間もなくの用意が出来、一風呂浴びて明日の午まで寝るだろう。午からセミナーに出かけ、此処へ戻って来、後十日間で何とはなく、約束した短編と連載小説を合わせて三つ書くとい訳だ。」

そこで、都築明は、石原さんは、自分に問いかける。

「そんなことで――、こんなことでおい明よ、貴様は何かの仕事をやっているとでも言えるのか“」(72頁)

この「おい明よ、貴様は何かの仕事をやっているとでも言えるのか」という独白は、21歳からの私の心のなかで、なんどもなんども響くリフレーンになった。「オマエは、それでなにかをやっているつもりなのか」と。

山の上ホテルは、天ぷらの美味しいカウンターがあって、その後私は自分の金で行けるようになった後、なんども出かけたものだ。

そんなことをしているうちに今や72歳になった今でも、私は自分を問い詰めることがある。「こんなことで、おい、貴様は何かをやっているとでも思っているのか」と。

石原さんからの電話は、確かに伊藤整の『変容』についてだった。

ところが、ふしぎなことに、en-Taxiという雑誌の創刊号(2003年3月27日 扶桑社 70頁)では、こんな発言を石原さんはしているのだ。

「変な話だけと、牛島信という、不可思議な推理小説家がいるんだよ。これは一番東京で流行っている弁護士なの。だから事件のネタはふんだんに持っている。」と私をさらりと紹介したすぐ後の部分で、

「この間、彼と電話で話して。『伊藤整、読んでみたことある?』と言ったら、『ああ、あります。僕、大好き』と。『何が好き?』と言ったら、『僕は『氾濫』と『変容』が大好きです」と言うからさ、『君、折角面白い素材をもっているのに、あとは意識の襞の問題じゃないか』と言ったんだ。そうしたら『ああ、そうだなあ。こんなこと言われたの、初めてだ』と言ってたけど。』

とある。

しかし、現実には、石原さんは初めっから『変容』を指して、あれはおもしろいよね、読みながら笑っちゃう、と言ったのだ。決して『氾濫』ではない。それは、とても読んでいて愉しいという、読書の愉しみを若い人間にきどらずに教えるという調子だった。『氾濫』について話し始めたのは私だった。

その雑誌での発言は、もともとが座談会での発言なのだが、その私について話す前、伊藤整が話題になった部分で石原さんは、丸谷才一を批判しながら、

「思わず膝を打ったり笑ったりさ、『なるほどそうだよな、お互いに』ってことは、全然ないもの。」と言っている。

そのまさに「思わず膝を打ったり笑ったりさ、『なるほどそうだよな、お互いに』という雰囲気が、石原さんが『変容』について電話をくれたとき、電話器の向こう側の石原さんの息づかいにはあった。(66頁)

ところが、その雑誌のなかでは「僕、伊藤整の『変容』は読んだことなかった。『氾濫』は昔面白かった。けど、今読むともっと面白いね、年ですかね。」と言っている。(68頁)

石原さんは、『変容』を読んでみろ、と私に勧めるためにわざわざ電話をくれたのだ。それが、時系列からいってこの座談会の前であることは、私についての石原さんの発言内容から間違いない。

それなのに、『変容』は読んだことなかった、になってしまっている。

いったいなにがどうしたのか。

なにがなんであったとしても、私には、あのときの石原さんの、いかにも愉しくて、おかしくて、笑わずにはいられないといった調子の声は、私の記憶に残っている。

そうやって石原さんは私の気分を引き立ててくれたのだ、と思い出さずにはいられない。

私は、石原さんは、自分にとって伊藤整がしてくれたことを、私のためにしてやろうと思い定められたのではないかという気がしている。

文学界の編集者で石原さんの『灰色の季節』に才能を感じた浅見淵は、「一橋文芸」と言う同人誌にでていたのだから、機会があって伊藤整に、素晴らしい才能のきらめきのある学生の話をしたのではないか。伊藤整は、それは私に金を借りに来た好青年のことだとでもいったろう。浅見氏は勇気百倍、石原氏に接触して、次作を書かせた。『太陽の季節』である。

それに芥川賞をやろうという話が伊藤整と文藝春秋の間でまとまっていたのではないか。

私の疑いに過ぎない。

しかし、石原さんは伊藤整のお蔭で小説家になり、一家の財政破綻を救い、昭和の戦後を象徴する人物になることができた。律義な石原さんのことだ、どれほど感謝していたか想像ができる。

その役割の一部が、この変わった弁護士作家で再現できるのではないか、と思ったのだろう、と考えるのである。

いややこの世にいない、虚無になってしまった石原さんはなにも答えない。私は、虚空に向かって叫ぶだけのことしかできない。しかし、私のなかの石原慎太郎さんは消えていない。生きている。

(つづく)

トップ写真:IOC Executive Board and the 2016 Candidate Cities BriefingLAUSANNE, SWITZERLAND – JUNE 16: Tokyo 2016 Olympic bid President Shintaro Ishihara speaks to the press prior to there presentation bid and technical plans for the Olympic and Paralympic Games for 2016 on June 16, 2009 in Lausanne, Switzerland. (Photo by Ian Walton/Getty Images)




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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