インフレが来た 現在のインフレは本当に一時的か?
神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)
「神津多可思の金融経済を読む」
【まとめ】
・30年ぶりのインフレ。背後の世界経済の変化には構造的側面もあり、一過性のものかは不確実。
・現在のインフレ期待下でイールドカーブを実質金利が変わらない範囲で全体として少し上方にシフトさせることにも合理性か。
・中長期的にみて、より高いリターンのために企業がリスクをとれる金融政策を維持することが日本経済の実力を高めるのでは。
30年振りのインフレになっている。30年前に社会人になった人は、50歳前後となっているはずだ。それぞれの持ち場で、もうベテランと言われる年齢層だ。より若い人々にとって、消費税増税もないのに社会実感としてこれほどのインフレになることは未経験であり、どう対応すれば良いかすぐ思い付かなくても不思議ではない。日本経済は今、そういう戸惑いの中にある。さらに、グローバル経済に目を広げれば、こうしたインフレが、一時的かどうかについても不確実性がある。経済環境はまた新しい局面を迎えたのかもしれない。
■ 急速なインフレ率の高まり
5月の消費者物価前年比は、総合で+2.5%だった。生鮮食品を除いても+2.1%。昨年の5月はそれぞれ△0.8%と△0.6%だった。一年で様変わりだ。昨年の10月はどちらもまだ+0.1%だったから、半年余りでいきなり日本銀行が長いこと目標としてきた2%インフレになってしまったのである。
当初、2年間程度で実現するとしていたインフレ目標であるから、それに比べて約4倍のスピードでの上昇だ。それほど急激なこともあって、日本銀行が「望んだような」インフレ率の上昇にはなっていない。「望んだような」というのは、国内で生産される付加価値についてのインフレも消費者物価と並行して上昇するインフレと言って良い。
付加価値のインフレとはすなわちGDPデフレータの上昇だ。分配面からみれば、それは賃金と企業収益に関するデフレータも上昇するということだが、そのGDPデフレータは今年の1~3月△0.6%となおマイナスである。つまり、現在のインフレは輸入インフレであって、企業にとってみれば、投入価格の上昇を産出価格に完全に転嫁できていないので、名目の付加価値生産額は輸入品のコスト上昇分、減ってしまっている状況なのだ。
海外からの輸入品の価格が上昇して国内の企業にとっての採算が悪化しているのであるから、景気には下押し圧力が加わっている。そうした下での金融政策は、景気下支えでなくてはならないので、どういうかたちであれ金利を引き上げるということにはならない。日本銀行の現在のスタンスはそういうことだとも理解できる。
写真)液化天然ガスも輸入価格が高騰している。(2022年4月7日 千葉県富津市冲)
出典)Photo by Carl Court/Getty Images
■ グローバル経済の変節点
現在のインフレも、これが本当に一過性であれば、現在の日本銀行のスタンスが納得できても、できなくても、問題はいずれ解消してしまう。しかし、現在のインフレの背後にある世界経済の変化には、構造的な側面もあり、インフレ圧力の高まりが純粋に一過性のものかどうか不確実だ。米国でも、1年前にはインフレ圧力の高まりは一時的とみられていた。米国で起こることが、より小規模だが、やや遅れて日本でも起こるというのは、これまでも何回か経験してきたことだ。
コロナ禍からの立ち上がりで、潜在的な需要が解放されることの影響は確かに一時的だろう。しかし供給面では、米中対立、コロナ禍、さらにはウクライナでの戦争などの経験から、遊びのないリーンなサプライチェーンを限りなく追求すれば良いというムードではなくなっている。万が一のことが起こっても、企業活動に深刻な影響が出ないようプランBを様々なところで用意しようとすると、それはコストを押し上げる。
ベルリンの壁崩壊後、少なくとも先の国際金融危機までの間は、いろいろなかたちでのグローバル化が急速に進展し、サプライチェーンにおける様々なコストは傾向として年々減ってきた。しかし、グローバル経済の統合のスピードは国際金融危機を契機にスローダウンした面があるのではないか。先頃までの主要国による積極的な金融緩和によって覆い隠されている面があるが、そのことは、中国が明確に米国タイプの経済運営を目指さなくなったところに顕著に表れている。グローバル化のトレンドが変節点を迎えているのであれば、もはや以前のようにはコストは圧縮されない。
並行して、これまで累積的に緩和されてきた金融環境が、そのような変節点を迎えた可能性のある実体経済との対比でアンバランスになっていることも意識されるようになった。そうした中でのインフレ圧力の急速な高まりであり、長期的なマクロ経済の安定のためには、まずはインフレの抑制が一番重要という判断に、主要国の中央銀行は一斉に舵を切っている。
■ 日本の金融政策
とは言え、日本では8%、9%のインフレが起きている訳ではない。金融政策のあり方も相応に違っていておかしくはない。ただ、かつて円高への対応という配慮もあって、現時点で過剰な金融緩和となっている部分があるとすれば、それはこの円安の中で修正されてもおかしくはない。
特に、企業が中期の経営計画を立てる3~5年程度の期間の金利が、現状、国債の流通利回りでみて0%前後となっているのが、そのままで良いかということがある。足元のインフレもあって3~5年の予想インフレ率も上昇しているはずだ。そうなると、その期間の国債利回りでみた実質金利はマイナスとなる。
企業は、国債金利と同じ金利で資金を調達することはできないが、実質のリターンがマイナスの投資案件に積極的になるはずはない。それでも低金利に促され、リターンの低い投資プロジェクトに手を出すことはあるだろうが、そうした低リターンの投資の拡大は、結局、日本の経済成長率を押し下げることになる。実際、これまでいくら金融緩和を強化しても、期待したような成長率の底上げは実現されてこなかった。
こうしたことを考え合わせると、現在のインフレ期待の下でイールドカーブ(利回り曲線)を実質金利が変わらない範囲で全体として少し上方にシフトさせることにも合理性があるのではないだろうか。ごく短い期間のマイナス金利にも、円高による物価下押し圧力への対応という側面があったはずだ。足元の円安の進行が速すぎて、様々な経済活動がそれに十分追い付いていけないのであれば、なおさらそうした対応にも意味が出てくる。
将来また円高になって困るようなことになったら、実質金利が安定する範囲で再びイールドカーブを下方にシフトさせれば良い。本当に重要なのは、望ましい物価の上昇であり、それは半年程度で実現できるものではない。中長期的にみて、企業がリスクをとってより高いリターンを生むプロジェクトに前向きに投資できるような金融環境を維持していくことこそが、日本経済の実力を高めるのではないか。
トップ写真)日銀・黒田東彦総裁
出典)Photo by Yamaguchi Haruyoshi/Corbis via Getty Images
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この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト
東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト
1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。
関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員。ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。