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.経済  投稿日:2024/1/20

賃金・物価の好循環―その実現には生産性の改善が必要―


神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)

「神津多可思の金融経済を読む」

【まとめ】

・経済や社会の構造が速いスピードで変化している時には、マクロの統計だけでは実態を見誤る。

・生産性改善の動きが強く出ているのであれば、持続可能な賃金上昇の展望も拓ける。

・日本経済の生産性を持続的に改善させていくために、政策当局にも新しい取り組みが求められる。

 

2024年の十干十二支は甲辰。株式市場では期待できると言われる年であり、多くの人が明るい気持ちで待ち受けていただろう。しかし、年初から胸塞がれることが相次ぎ、お正月気分も吹き飛んでしまった。あちこちで繰り返し述べられていることだが、どうしても、亡くなった方のご冥福を祈り、被災地で苦労をしておられる方々に一日も早く日常が戻ることを祈らずにはいられない。

被災地の復興を確かなものにしていくためにも、日本経済が元気を取り戻し前に進んでいく状況を実現、維持していかなくてはならない。この観点では、このところ賃金・物価の好循環ということが良く言われる。2%インフレが実現しても、実質でみた賃金が下がったのでは全くハッピーになれない。したがって、賃金もまた上昇しなくてはいけない。その通りだが、ではインフレ以上の賃金上昇が実現するのはどういう時なのだろうか。それには、持続的な生産性の改善がどうしても必要だ。

■生産性の改善とは何か

生産性については、技術的に幾つかの定義がある。それが生産性を巡る議論を難しくしているが、ここでは一人の働く人が1時間に生む新しい付加価値のことを考えたい。その場合、その新たな付加価値を働く人と企業でどう分けるかという分配の問題が生じる。これも一緒に考えると話が複雑になるが、いずれにせよ新しい実質的な付加価値が生み出されないと、働く人の実質の取り分も増えようがない。

働く人の実質の取り分が増えないと、生活の改善にならないし、また将来時点で価値が残る貯蓄もできない。賃金と物価の好循環といっても、実際に買うことができるモノやサービスが増えたり、将来に向けて価値ある貯蓄ができたりしなければ意味がない。

そのような、インフレの影響を除いた実質の生産性の改善は、一般的に技術進歩や働く人がどれだけ資本を使うことができるかという資本装備の充実によって実現される。ここでの資本には、単に機械設備だけでなく、ソフトウェアやさらには研修、訓練等の人的資本への投資も入る。効率の上がる生産設備や、事務処理を助けてくれるソフトウェア、あるいは働く意欲がわくような職場環境が整備されれば、働く人が1時間当たりに生む実質の付加価値も増える。

それでも、生産しても需要のない成果しか生まない場合は、いくら効率的に生産活動を行ったとしても、結果的に生産性は改善したことにはならない。モノの生産について例えれば、今日、いくら白熱電球や白黒テレビの生産効率をあげても、それでは日本経済の生産性向上には繋がらない。

そうなると、働く人がみな全く同じ仕事をし続けて、その中でより効率が良くなるだけでは、日本経済全体としての生産性はあがらないことになる。生産性の持続的な改善は、働く人の仕事の分野がより需要の強い分野へと移っていく中で実現されるのである。

■ミクロとマクロ

ところで、経済学ではしばしばミクロとマクロという対比が使われる。ミクロとは個々の事情をみることであり、マクロとは経済全体あるいは平均でみることだ。生産性の改善も、そもそもミクロの現場でそれが起こっていないと、いくら足し上げてマクロの数字にしても、やはり改善していないことになるが、既存の統計で生産性を把握しようとすると、最初からマクロの統計に頼ることがどうしても多くなる。

そのマクロのデータは、労働時間の変化も含めて生産性を考えていることになるし、年齢や雇用形態の変化も包含して生産性をみていることになる。最終的には、個人個人の国民の生活が、その個別の事情の中でより良くなっていくことが求められているので、経済や社会の構造がかなり速いスピードで変化している時には、マクロの統計だけで判断していると、実態を見誤る可能性がある。

この30年間、労働時間は傾向的に減少してきた。働く人に占める高齢者の割合は増加してきた。また、非正規雇用というかたちで働く人の比率も増えてきた。マクロ統計には、そうした様々な変化の結果が全て反映されているので、同じ仕事をしている人の生産効率がどう変化したかは、マクロの統計だけでは良く分からない。

以上のように、働く分野も変わっているし、働く人の働き方も変わってきた。そうした中で、生産性を評価するのは非常に難しく、したがって丁寧な分析が必要だ。表層的な比較によって過度に悲観的な見方をすることは、ミクロの現場での生産性改善の努力のフェアな評価にはならない。

■生産性の国際比較

例えば生産性の国際比較だ。最近、日本の生産性の改善が他の先進国に比べて低調だという議論があちこちで聞かれるが、それは、マクロの統計を、為替レートによって換算した結果を評価してのものだ。為替レートは、日々、金融市場で決まるものであり、必ずしも生産性の比較にはフィットしない。そもそも生産性は、為替レートのように日々上下することはあまりないはずだ。

金融市場で決まる為替レートの短期的な変動の影響を避けるため、購買力平価の為替レートを使うこともある。購買力平価の為替レートとは、ある時点を起点に、二か国の消費者物価の変動を相殺するよう為替レートが動いたと仮定した場合の為替レートである。しかし、これでもその国に暮らす人の幸せ度合いの比較がうまくいくかというと、そうとは限らない。

米国のように人口に比して広大な居住可能な土地があり、食糧やエネルギーの自給率が高い経済での家計消費のあり方と、日本のように居住可能面積が狭く、輸入に頼るところ大の経済のそれとは随分違う。日米の消費者物価で購買力平価を考えると、そうした家計消費の根本的なあり方の違いを除外して、日米の家計が同じような消費パターンを持っていることを暗黙裡に仮定した比較になってしまう。具体例をあげれば、米国ではガソリン価格はそもそも日本よりはるかに低いのである。

こうしてみてくると、生産性の国際比較がいかに難しいかがみえてくる。そして、現在なされている国際比較がかなり表層的であるようにも思えないだろうか。日本の生産性の改善を、生産年齢人口(15~64歳)一人が実質的に生む付加価値でみると、長期的には、米国よりは劣るが他のG7諸国と比べて遜色ないという分析結果もある。もちろん、日本経済のパフォーマンスにおいて改善すべき点は多々ある。しかし、なんでも全部駄目ということではないのではないだろうか。

物価生産性・賃金

今後、日本経済を持続的に良くしていくためには、現状をフェアに評価した上で、これからさらにどうしていくかを考えるべきだ。生産性についても、本来、以上で議論してきたように、ミクロに分け入った丁寧な分析が必要だ。そして、それを前提に、「賃金と物価の好循環」にどう生産性のピースを入れて行けばよいかを考える必要がある。その循環の順番は、物価→生産性→賃金かもしれない。

賃金と物価の好循環という、ある種、前向きな表現が出てきたのも、マイルドなデフレに繰り返し陥るような経済から、ある程度インフレが定着しそうな経済に変わってきたからかもしれない。では、どうしてインフレ気味の経済になるとそうした前向きな話になるのか。ついこの前までは、何故もっと金融緩和ができないのかという話ばかりがあちこちで聞かれていたのにである。

異次元緩和で期待に働き掛け、本当のインフレを起こすというストーリーは、どうもうまくいかなかったことがだんだん明らかになってきた。他方、輸入インフレという日本経済には迷惑なものであっても、インフレ気味になって経済に元気が出てきたのだとすれば、それはどういうことなのか。この点の理解抜きに、ここからの賃金と物価の好循環を言うのでは、考えの整理が不十分ではないか。

折角生まれてきた日本経済の元気の芽をさらに育てていくためにも、この点の点検は重要だ。マイルドなデフレが繰り返す状況が今後はなさそうだという見通しを出発点に、企業活動のミクロの現場において生産性改善の動きがより強く出ているのであれば、確かにこれからの持続可能な賃金上昇の展望も拓ける。

持続的な生産性改善の動きなしに賃金を上昇させれば、企業も利益を挙げることができず、したがって株価への好影響も途絶える。マイルドなデフレが繰り返していた時期は、そこそこ生産性が改善しても、それは賃金や配当には積極的に分配されなかった。雇用者も株主も、生産性改善の果実を企業内に留めておくことに大きな異論は差し挟まなかった。

しかし、インフレ定着が展望できるようになるとそうはいかない。労働者は実質での賃金改善を求める。そして、インフレ定着との直接の関係はなお不明だが、上場企業に効率的な経営を求める株主のガバナンスは強化されており、配当等の形で生産性改善の果実を求める声が強まっている。

■持続的な改善

賃金であれ、配当であれ、それらがインフレを上回って実質で改善していくことは国民生活をより良いものにする。配当もまた、資産所得倍増を目指す経済にあっては、持続的に実質で増えていくこがと国民全般にとって重要だ。生産性の持続的な改善は、どちらの上昇にとっても大前提なのである。

上述したように、生産性改善の評価においては、マクロの統計ばかりをみていてはいけないのだが、とにもかくにも、できるだけ多くの現場でまずはミクロの生産性改善が継続していかなくてはいけない。特に日本では、働く人の数が減るのであるから、その生産性改善を全部足した場合でも、数字としてはその程度が弱く出る可能性がある。しかし、そうしたことに惑わされることなく、働く者一人一人が一時間当たりに生む付加価値の実質額が傾向的に増えることを実現しなくてはいけない。

そのためには、同じ仕事であれば、働く者一人一人が、新しいイノベーションの恩恵を受けるかたちで資本装備を高めなくてはいけない。すでに述べたように、それには機械設備だけでなく、生成AIのようなソフトウェアや、働く意欲を高める労働環境の整備、能力向上のための教育機会なども含まれる。これらは企業による広義の投資に他ならない。

また、これまでのグローバル化の中で、日本国内で供給するのが不利になった財やサービスについては、そこに経営資源を残すのではなく、なお優位性が残る分野へと動かしていく必要がある。それは、ともすれば摩擦的な失業や、企業の廃業を伴う。したがって、リスキリングのためのインフラ整備が必要になるだろうし、働く者が次の仕事に移るまでの間の生活を支えるためのセーフティネットの整備も同様だ。

マクロ統計に引っ張られ過ぎることなく、そうした工夫の結果としての生産性の改善が順調に進んでいるかどうかを評価するのは、単にマクロの成長率やインフレ率だけをみての作業よりずっと難しい。しかし、2024年、新たなグローバル環境とさらに変化する人口動態、加えて生成AIに象徴されるような技術革新の新次元の中で、日本経済の生産性をここから持続的に改善させていくためには、政策当局にも新しい取り組みが求められる。そうした取り組みは、今回の震災で被害を受けた地域の復興を助けるものにもなるはずだ。

トップ写真:東京の街並み(イメージ)出典:Photography by ZhangXun/GettyImages




この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト

東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト


1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。


関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。

神津多可思

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