無料会員募集中
.政治  投稿日:2022/9/17

初代首相もテロに斃れた(上)国葬の現在・過去・未来 その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・今月27日、安倍元首相の国葬が執り行われる。

・テロによって生涯を終えたこと、長州人であることという共通点がある初代首相伊藤博文には様々な逸話がある。

・伊藤博文の人気は、「成り上がり者」にありがちな傲慢を感じさせなかったことと、日露戦争回避を主張していたリアリストぶりが理由。

 

今月27日、安倍元首相の国葬が執り行われる

未だ賛否両論があるが(12日段階)、いくらなんでも中止とはなるまい。ただ、世界中の要人が東京に集まる中、岸田政権の存在感を示したい、という目論見であったとすれば、完全に裏目に出てしまったとは言える。

▲写真 健康上の懸念から辞任を表明した安倍元首相(2020年8月28日、東京) 出典:Photo by Franck Robichon – Pool/Getty Images

その話は後ほどあらためて述べるとして、よく知られる通り、安倍元首相は二度にわたって総理の座に就いている。わが国では内閣総辞職もしくは解散総選挙をもって首相の代替わりとカウントするので、安倍晋三という政治家は90代および96~98代の首相となる。

初代は言わずと知れた伊藤博文だが、彼もまたテロによってその生涯を終え、国葬に付されている。

安倍元首相とご遺族には気の毒な言い方ながら、政治家としての「格の違い」は歴然たるものだが、一方、この両者には共通点も多い

まずは「長州人」であるということ。

安倍元首相自身は東京で生まれ育っているのだが、祖父である岸信介も含め、最多8人の首相を輩出した「長州閥」の末裔で、これまたよく知られる通り、自身の選挙区も山口県だ。

私事にわたるが、かの地の政治風土について、こんな話を聞いたことがある。

私の父は『全国農業新聞』で長く働いており、政治家の取材も数多くこなしていたが、

「地元ではもめていても、外(他県や東京)に対して、我々は長州だ、って言うと、自民党から共産党まで仲良く盛り上がっちゃうんだ笑」

ということであったらしい。安倍元首相にとっては大叔父に当たり、やはり首相を務めた佐藤栄作など、機嫌がよい時は長州訛りが口をついて出ることで有名であったと聞く。

薩摩と共に明治維新の立役者となったのが長州だが、徳川幕府による弾圧や内紛などで、多くの人命が失われた。

そのような歴史から、明治維新の原動力となり、近代日本の礎を築いたのは自分たち長州の人間だ、というプライドを保ち続けているのだろう。

話を戻して伊藤博文だが、幼名は利助といい、多くの文献に「長州の下級士族の出身」と記されている。本当はもう少し「複雑な家庭環境」で、1841年、周防国束荷村(現・山口県光市)の農家の長男として生まれた。

父親が破産して離農を余儀なくされたため、萩に移住して長州藩の足軽・伊藤家の養子となり、嫡子たる利助も足軽身分となった。彼が5歳の時の話である。したがって当人には、農村での生活の記憶などはなく、自分は長州藩士の子だ、というアイデンティティを持っていたとしても不思議はない。

ただ、藩士と言っても、くどいようだが足軽身分である。

戦国時代には、足軽は鉄砲や長槍を手に戦場を駆け巡る、今風に言えば歩兵の主力であったが、江戸幕藩体制が確立すると、もっぱら警備や雑用を任務とする「補助的労働力」に過ぎなくなった。身分の点で言えば、士族には違いないが末端に過ぎなかったのである。

18歳の時に上司のコネで、吉田松陰が開いた「松下村塾」に入学したが、身分のせいで塾の敷居をまたぐことは許されず、縁側の外で講義を聴いたという。ちなみに吉田松陰は伊藤のことを、

「お世辞にも才能豊かとは言いかねるが、とにかく実直で裏表がない。僕は好きだな」 

と語っていたそうだ。伊藤の方でも恩師である松陰から、いずれ俊英として名をなすべし、と言われて「俊輔」の名を授かった、と自慢し、幕末に志士として奔走していた当時はこの名前で通していたが、これはどうも、今風に言えば「話を盛っている=自分で名乗ったに過ぎないのではないか」と見る向きもあるようだ。

▲写真 安倍元首相が選挙運動中に銃撃された大和西大寺駅前の現場で祈る人々(2022年7月8日、奈良) 出典:Photo by Yuichi Yamazaki/Getty Images

また、こんな逸話もある。

塾生一同で下関の遊郭に繰り込んだ時も、彼だけは酒席に呼んでもらえなかった。言うまでもなく足軽身分のせいである。

小部屋でしょんぼりしていると、一人の半玉(はんぎょく。芸妓見習いの少女)が、徳利と肴を乗せた小盆を、そっと差し入れてくれた。

明治の世となって、極冠にまで出世を遂げた伊藤は、故郷に錦を飾ったが、その際、一説によれば設立間もない警視庁のツテで(!)彼女の所在を突き止め、お座敷をかけた(芸妓を指名して呼ぶこと)。

すでに老妓になっていた彼女は恐縮して平伏するばかりだったが、伊藤は笑顔で、

「あの時は嬉しかったぞ」

と言葉をかけたとされる。余談ながら警視庁云々は都市伝説で、長州の人脈を頼ったに違いないと私は思っているが。

そもそもこの逸話自体……と語りだすと際限がなくなるので話を進めるが、明治の元勲の中でも伊藤の人気が高かったのは、彼が「成り上がり者」にありがちな傲慢を感じさせなかったからだとは言えるだろう。明治天皇も伊藤のことは特に信頼しており、日露戦争開戦に際して、もしも満州・朝鮮でロシアに敗れ、敵が本土に攻めてくるとなった際は、

「臣・伊藤も一介の書生に戻り、故郷・下関で戦います」

と言上したが、明治帝は、

「それはならぬ。伊藤は最後まで朕の側におれ」

と答えたという逸話もある。吉田松陰が本当に前述のように伊藤を評したとすれば、なかなか人を見る目があったと言えるかも知れない。

その日露戦争開戦に際して、伊藤は土壇場まで戦争回避を主張していた

前に『二百三高地』という映画を紹介した際にも述べたが、世界最強との呼び声も高かったロシア軍相手に、極東の小さな島国が戦争を挑むなど無茶だ、という理念をしっかりもっていたのである。

当時の日本には「ロシア憎し」の考えに凝り固まった人が多く、伊藤のことを弱腰だと非難したり、ある時など帝国大学の教授連が伊藤に面会を求めて開戦論を説くほどだった。

伊藤は、こう言って追い返したそうだ。

「私は諸君の名論卓説に相談する気はない。大砲の数と相談しておるのだ」

このようなリアリストぶりもまた、伊藤の人気を高めている理由のひとつだろう。ただ、その一方では彼について、

「東洋のビスマルクになりたかったのではないか」

と評する向きもある。

初代の内閣総理大臣として、大日本帝国憲法の起草にあたったことはよく知られるが、この憲法も、日露戦争後の韓国統監就任など、プロイセンの「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクに影響されたに違いない、というわけだ。

影響を受けたか受けなかったかで言えば、間違いなく受けているだろう、と私も思うが、そこまで単純な話でもない。

また、後者が独立派によるテロ=伊藤暗殺へと結びつくのだが、この事件に対する歴史的評価も、一筋縄では行かないところがある

次回、その話を。

トップ写真:東京の増上寺で行われた安倍晋三元首相への追悼式で花を供える人たち。(2022年7月11日、東京) 出典:Photo by Yuichi Yamazaki/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."