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.政治  投稿日:2022/9/18

初代首相もテロに斃れた(下)国葬の現在・過去・未来 その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・初代内閣総理大臣である伊藤博文は1885年に選出された。

・プロイセンを手本として作られた憲法の下、近代化を進め、朝鮮での覇権を得たが、朝鮮側は主権を剥奪され、独立を求める気運が高まった。

・結果伊藤博文は、過激派である安重根に暗殺され、葬儀は1909年11月、国葬として執り行われた。

 

前回述べたように、わが国の初代内閣総理大臣は、伊藤博文である。

1885(明治18)年に、それまでの太政官制度に変わって新たに内閣制度を設けることとなり、彼が総理大臣(以下、首相)に選ばれた。

太政官というのは、平安時代より続いた制度で、天皇の補佐をする高級官僚の総称と考えればよいが、後に武士が台頭して「鎌倉殿」の世となってからは、有名無実の存在となっていた。明治維新の過程で「王政復古の大号令」が発せられたこと(1868年)を受けて再び日の目を見たものの、さすがに近代国家にはふさわしくない、と考えられるようになったのだ。

しかしながら、公家と武士との間にあった対立感情が、明治維新後まで尾を引いていたことも事実である。

具体的にどういうことかと言うと、初代総理大臣に誰がふさわしいかという議論の中で、最有力候補となったのは三条実美であった。藤原摂関家の嫡流という家柄で、長州の足軽だった伊藤とは、当時の感覚で言えば身分違いどころの話ではなく、天皇の最側近にどちらがふさわしいかは自明だ、というのが、公家を中心とする勢力の主張であったらしい。

この「三条推し」の動きに対して、初代大蔵大臣となる井上馨、大日本帝国陸軍の生みの親と称される山県有朋ら、ともに維新の動乱をくぐり抜けてきた長州出身者が異を唱え、伊藤の首相就任が実現する。決め手となったのは、

「これからの首相は赤電報(外電のこと)くらい読めなければ駄目だ」

という井上の言葉で、これにはお公家さんたちも返す言葉がなかったと伝えられる。

伊藤と井上は、ともに長州藩の密命を受けて英国に留学し、日英の国力差を目の当たりにして、それまでの攘夷派(外国人を追い出せ、という立場)から開国派に転向したという経験をしている。山県については、後であらためて見る。

▲写真 明治憲法を起草し国会開設に尽力した総理大臣、伊藤博文 出典:GettyImages

前回、安倍元首相について「長州閥の末裔」との表現を用いたが、確かに明治以降の日本の政界において、長州人脈は侮りがたい影響力を保っており、その起源は「足軽上がり」の伊藤を首相に押し上げた、この時の長州人たちの結束力に求められる。

ちなみに首相就任時点での伊藤は44歳。初代首相であると同時に、歴代最年少で、今日に至るもこの記録は破られていない。

ただ、現行憲法下では安倍元首相が最年少(52歳。戦後生まれとしては初)で、これも二人の共通点と言える。

いずれにせよ伊藤は、ロンドンで本格的な英語を学んできたおかげで、明治政府の中で要職を歴任し、ついには初代首相にまでなったのだが、第一次伊藤内閣の命題であった憲法の起草に際しては、プロイセンの世に言う「ビスマルク憲法」を手本とした。

これには伏線があって、伊藤は1871(明治4)年に、公卿・岩倉具視を全権とする大規模な欧米視察団=世に言う岩倉使節団に加わり、欧米と当時の植民地の状況を視察し、各国の政治家とも幾度か意見交換した。

紙数の関係上ごく大雑把な説明でお許しを願うが、当時の米国は、1861年から65年にかけての南北戦争がもたらした政治的混乱が未だ収束しておらず、一方ヨーロッパ大陸では、1871年から翌72年にかけての普仏戦争で勝利を博したプロイセンがドイツを統一し、ドイツ文化圏の盟主の座がウィーンからベルリンに移りつつあった。一方フランスではこの戦争の過程で、屈辱的な講和をよしとしないパリ市民が、市内の各所にバリケードを築いて武装蜂起する、という事態=世に言うパリ・コミューンまで起きている。

日本国内も未だ政治的混乱期にあり、いわゆる不平士族の問題だけでなく、庶民の間にも「徳川様の世の方が……」という気風が根強く残っていた。

民権を重視したフランスや米国の法体系に倣うのでなく、強力な中央集権体制であるプロイセンのそれを手本とすべきで、また、強力な国民統合を実現するためには、天皇を神格化し、学校教育を通じて「日本は天皇を中心とする神の国」であるとのイデオロギーを国民に植え付けるべきだ・・・伊藤らがこうした結論に至ったとして、なんの不思議もない。

もちろんこれには、異を唱える人たちもいた。代表的な例としては、佐賀藩出身の大隈重信らで、

「英国風の立憲君主制を日本にも導入すべきである」

と主張し、伊藤らと対立した結果、最終的に政府中枢から追い出されてしまう。世に言う明治14年の政変だが、大隈は程なく返り咲き、首相にまでなる(第8代、17代)。

当時はまた、自由民権運動も盛り上がりを見せつつあり、私製の憲法草案や政体に関する建白書が数多く提出されたが、伊藤らはこれらの意見など、一顧だにしなかった。

公平を期すために述べると、このような経緯で発布に至った大日本帝国憲法だけに、戦後日本においては、過度なまでの天皇中心主義や徴兵制度など、いわば負の側面だけが強調されているきらいがある。しかしながら当時の感覚では、封建社会の価値観を覆して(華族・士族と言った身分制度は温存されていたものの)、法の下での平等や個人財産権の保護が盛り込まれた、先進的とさえ言える憲法であった実際問題として、自由民権運動の活動家の間でさえ、

「予想以上に善き憲法ができたではないか」

と評価する声が多かったということは、知っておく必要があるだろう。

このように着々と近代化を進めた明治の日本は、ついには日清・日露の戦役で勝利を博するに至る。その結果、朝鮮半島における覇権を不動のものとした。

そして、前回も述べた通り、伊藤は初代韓国統監の座に就くが、彼自身は統合=半永久的な植民地化を目指す政策には、賛成しかねるという立場であった。側近に対して、

「朝鮮人は偉いよ。古い文化もあるし、日本人に負けず劣らず勤勉だ。それなのにあの国があんな有様なのは、畢竟(李王朝の)政治が悪いからだ」

と一度ならず語ったという。

そして実際、伊藤は朝鮮の李王朝と二度にわたって条約を締結し、外交権や財政権を強引に委譲させた。

おさまらなかったのは朝鮮半島の人たちである

日清・日露の戦役は、いずれも事実上、朝鮮半島の支配権をめぐって戦われたものだが、生活の場を戦場にされた半島の人たちの立場はどこにもない。そして最終的には、日本に戦争を仕掛けて敗れたわけでもなんでもないのに、主権を剥奪されたのだ。

かくして独立を求める気運が高まり、一部は、暴力に訴えることも辞さないという過激な思想に染まる者もいた

アン・ジュングン(安重根も、その一人である。

1879年生まれ。カトリック信者だが、前に統一教会の問題に絡んで述べた通り、朝鮮半島におけるキリスト教徒は、独立運動にあっても大きな役割を果たしてきた。

現在の韓国でも、彼は「救国の英雄」とされていると聞いていたので、旧知の韓国人ジャーナリストに確認を求めたところ、こう言われた。

「たしかに英雄として、歴史の教科書にも載っています。けれど、みんなそれほど詳しくは知らないと思いますよ。日本の学生だって、日本史の教科書に載っている人物について、どれほど知ってますか?それと同じですよ」

話を戻して、事件が起きたのは、1909(明治42)年10月26日のことである。

伊藤は清国吉林省(現・中華人民共和国黒竜江省)のハルピン市に乗り込んだ。

日露戦争で、日本側は勝利に等しい講和を勝ち取り、もともとロシアが敷設した満州鉄道の権益を得ることになった。とは言え、具体的にどこからどこまでを日本の権益とするのか、細部を詰める必要があり、ロシア側の外交団と話し合うためにやってきたのだ。

普通なら外交使節か市内のホテルで会談が行われるものだが、ハルピンの治安悪化を理由に駅構内、具体的にはロシア側が用意した特別列車の車内での会談と決められていた。そして、日本側の列車からホームに降り立ったところを、群衆に紛れていたアンに拳銃で撃たれた。3発の命中弾を受けた伊藤は、侍医の手当も功を奏さず絶命。享年68。

今更ながらだが、安倍元首相は享年67。非常に近い。

それはさておき、前述のようにテロが起きた状況が不自然であったことから、ロシアの関与が疑われると前々から言われていた。

当人の供述によって、凶器となったブローニング社製自動拳銃2丁を購入した資金の一部を、ロシア人が拠出したことまでは明らかになっているが、朝鮮の親ロシア派との関係などは不明だとされていた。彼は現場でロシア兵に取り押さえられ、日本側に引き渡された。その後、旅順に身柄を移され、絞首刑となる。享年30。

実を言うと前出の韓国人ジャーナリストは、同国で放送された、アンの生涯を描いたドキュメンタリー番組の制作に関わり、日本語文献も含めて相当量の記録に目を通した経験があるという。

「制作会社との契約で、守秘義務のようなものがあるので、詳しくは話せませんが」

と前置きしながらも、ロシアが糸を引いた可能性はきわめて高い、との見方を回答してくれた。

いずれにせよ、伊藤博文がテロに斃れたことにより、独立運動が一挙に活気づいたかと言うと、事実は逆で、アンの目論見は完全に外れた。このテロを受けて時の日本政府は態度を硬化させ、翌1910年、日韓併合となる。

この時期の歴史に関する文献をひもとくと、いずれも「朝鮮」「韓国」の表記が入り乱れてややこしいが、これは、政治体制としては「李氏朝鮮」が正式な呼称だが、国号は「大韓帝国」だったからである。しかしながら日韓併合によって、李王朝も滅亡した。

半島の人々は、名前まで日本風に変えさせられて、それが法的な本名となり、日本語教育を受ける義務まで課せられた。主権はおろか、伊藤の言う「古い文化」まで奪われたのである。

今でもごく一部の日本人の口から、

「日本は朝鮮半島に鉄道を敷くなど、近代化のために巨額の投資をしたが、朝鮮人はそれに対して暴動やテロで報いた」

などという言葉を聞くことがある。ここまで読まれた読者には、多くを語るまでもないが、因果関係があべこべなのだ。

その話はさておき、伊藤の葬儀は1909年11月4日、国葬として執り行われた。当時まだ国葬令は成文化されておらず、天皇の勅許によって国葬とされたのである。

つまりは明治維新の功績などによって、国葬に付された人は他にもいるわけだが、その評価は様々である。

次回はその話を。

トップ写真:伊藤博文(左)と家族  出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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