「人が核兵器に触れると破滅もたらす」 キューバ危機の教訓語ったマクナマラ国防長官
樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)
【まとめ】
・ウクライナ危機をめぐってバイデン大統領が再来を予言したキューバ危機から60年。
・当時、米国防長官だった故マクナマラ氏は生前、ミスがつきものの人間が核兵器を扱うと破局に至ると警告していた。
・マクナマラ発言は現在の国際紛争を考えるうえでも示唆に富んでいる。
マクナマラ元米国防長官との一問一答は次の通り。
(聞き手は筆者、2002年10月30日づけ産経新聞から引用
■ ソ連の報復を危険視、攻撃論は後退
樫山:米国がキューバへのミサイル配備を知ったのは1962年10月16日といわれているが。
マクナマラ氏:「U2型偵察機による写真で米国がその事実を知ったのは、実際には14日、日曜日だった。私は15日夕に報告を受けた。大統領には16日午前8時に報告された」
樫山:ケネディ大統領は当初から明確な方針を示したのか。
マクナマラ氏: 「大統領は直ちに国防長官、国家安全保障問題担当補佐官、中央情報局(CIA)長官らによる会議を招集した。後に『エグゼクティブ・コミッティー』と呼ばれることになる幹部会議だ。大統領は『ミサイルを撤去させなければならないが、戦争の危機を冒さずにそれを実行する必要がある』と指示した。『全員一致の解決策に至ったときか、全員一致が不可能とわかったときに報告してくれ』とも言った」
樫山:一連の会議では議論が分かれたというが。
マクナマラ氏:「16日朝の会議では多くの人が(先制)攻撃を主張した。その後、数日の議論を通じて、攻撃論と海上臨検による『隔離』にとどめるべきという意見とに二分された。『封鎖』ではなく、隔離という言葉を使ったのは、ソ連に戦争の第一段階と考えてほしくないという配慮からだった」
樫山:アチソン元国務長官やバンディ補佐官(国家安全保障問題担当)らが強硬論の急先鋒(せんぽう)だったと聞いているが。
マクナマラ氏:「個人の発言に触れるつもりはないが、アチソンは攻撃論者だった。バンディは会議を建設的に進めようとした」
樫山:論議の途中で、攻撃論はなぜ勢いを失ったのか。
マクナマラ氏:「キューバを攻撃すれば多くのキューバ兵、駐留しているソ連兵に犠牲がでる。ソ連は報復として西ベルリンのNATO(北大西洋条約機構)軍を攻撃するか、米軍のジュピター・ミサイルが配備されていたトルコを攻撃してくるだろう。数日間の論議を通じて慎重論者はソ連の報復は危険なものだと主張し、攻撃論者もそれを認めざるを得なくなったからだ」
■悪夢の10月27日
樫山:この間の最大の危機は。
マクナマラ氏:「フルシチョフ首相からの回答を待っていた10月27日、土曜日が最も危険な日だった。ほんのわずかの差で、危うく核の破局に直面するところだった。大統領は朝からわれわれと会議を開いていた。フルシチョフがなかなかミサイル撤去に応じようとしなかったため、統合参謀本部は36時間以内に攻撃することを進言した」
「この時点でわれわれは、キューバにミサイルは持ち込まれてはいるが、核弾頭は配備されていないと判断し、攻撃するなら核配備の前だと考えていた」
「多くの人が攻撃論に同意したが、実はその時すでに162基の弾頭が搬入され、70基が米国向けに配備されていたのだ。実際に使われていたら米国の東海岸の900万人の命が危険にさらされていただろう。私はその事実を30年近くも知らずにいた。1992年2月にハバナを訪問したときに、キューバ側からその話を聞いた。本当に危険なことだった」
■ソ連、米国の攻撃が近いと考え譲歩
樫山:フルシチョフ首相がその翌日の28日、突然ミサイル撤去に応じたのはなぜか。
マクナマラ氏:「われわれの攻撃が切迫していると考えたからだ。フルシチョフはそうなれば核戦争に発展すると考え、これを極度に恐れていた」
「撤去を伝えるメッセージを米国に送ったとき、数時間以内に攻撃が始まると思い込んでいた彼は、モスクワからの送信、暗号解読の時間などを計算すると間に合わないかもしれないと思いラジオでもメッセージの内容を伝えたのだ」
樫山:ミサイル撤去表明を聞いてどう思ったか。
マクナマラ氏:「とてつもない危機が去ってくれたと本当にうれしかった。実際は、そのときまだ核弾頭がキューバに残っており、危険な状態であったのだが、その時点では知る由もなく、とにかく喜んだ」
樫山:フルシチョフ首相はなぜ、ミサイルをキューバに持ち込んだのか。
マクナマラ氏:「ひとつの理由は、核戦略で米国に対する立場を強めようとしたのだと思う。しかし、キューバに核ミサイルを配備したとしても、米ソの核バランスを変えることはできなかったろう」
「もうひとつの理由は、米国が先にキューバに通常ミサイルを撃ち込み、カストロ政権を転覆させると考えたのだろう。たしかに、ピッグス湾進攻などはあったが、大統領も私も軍事力行使など考えたことはなかった」
■核兵器は世界を破壊する
樫山:危機の日々にあって戦争は避けられないと考えたことはあったか。
マクナマラ氏:「私自身は核戦争が避けられないと思ったことは一度もなかった。大統領も私も、その危険はあると考えたが、あくまでも、その可能性が広がることを避けて行動した。戦争は不可避という状況ではなかった」
樫山:危機を乗り切ったケネディ大統領の采配ぶりはどうだったか。大統領の実弟、ロバート・ケネディ司法長官(当時)が重要な役割を果たしたともいわれるが。
マクナマラ氏:「大統領は非凡な英知と指導力を示して問題解決の陣頭にたった。司法長官は、われわれ同様、戦争を避けようと考えていた。だから彼は攻撃に反対し、臨検に賛成した」
樫山:キューバ危機から学んだ教訓は何か。
マクナマラ氏:「キューバのミサイル危機は、過去半世紀の外交、軍事政策における最高の危機管理だったと思う。軍事行動は複雑なものだ。特定の行動をとった場合、相手がどう反応するか予測しがたい。だからこそ失敗を犯すのだ。通常兵器の使用であれば、『二度と過ちを繰り返すな』ですむが、過ちがつきものである人間が核兵器を扱えば、世界を破壊してしまうだろう。それが教訓だ」
■ ■ ■ ■
マクナマラ氏はインタビュー当時、すでに86歳。その翌々年に再婚して話題を呼んだが、2009年に93歳で死去した。
現職時、豊かで強そうにみえた頭髪は薄くなり、眼鏡越しの鋭い眼光はすっかり柔和な眼差しに変わっていた。
ケネディ政権の後を襲ったジョンソン政権で留任したが、68年2月に辞職、世界銀行総裁に就任した。
危機当時の大統領、ジョン・F・ケネディ氏は翌63年11月、テキサス州ダラス市内で遊説中に撃たれ死亡。
ロバート・ケネディ氏は兄大統領の死後、ニューヨーク州選出の上院議員として活躍。68年の大統領選に名のりをあげたが、同年6月、ロサンゼルスで遊説中に兄同様、銃で暗殺された。
トップ写真:ジョン・F・ケネディ大統領とカーチス・レメイ将軍および補佐官によるキューバ監視の協議の様子(1962年10月)
出典:Photo by Charles Phelps Cushing/ClassicStock/Getty Images
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この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長
昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。