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.社会  投稿日:2023/2/17

さようなら「国民雑誌」オワコン列伝 その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

国民雑誌週刊朝日』が休刊する。

・世の中の動きを知るためにインターネットが使われるようになり雑誌の需要は低下。

・寝そべって週刊誌を気になった記事から読んで行く楽しみは失われた。

 

『週刊朝日』が5月いっぱいで休刊するそうだ。

休刊してその後復活したという話はあまり聞いたことがないが、実はこれ、出版業界特有の言い回しで、一種の方便なのである。

 まず、日本で発行される雑誌には、流通管理のために雑誌コードというものが割り振られている。これを取得する手続きがなかなか煩雑な上、登録・更新の費用もかかるため、廃刊して新しい雑誌を立ち上げるより、休刊としておいた方が、なにかと面倒が少ないという理由がひとつ。

 いまひとつは、雑誌を発行するほどの会社というのは、いずれもそれなりの規模とステータスがあるので、廃刊と発表することによって、製作もしくは経営上の失敗がイメージされてしまうのを避けたいという理由であるらしい。早い話が「撤退」でなく「転進」だと強弁した発想とあまり変わらない。

 話を戻して『週刊朝日』と言えば1922(大正11)年に創刊された、老舗の新聞社系週刊誌である。1950年代には発行部数100万部を超えていたと聞く。

 

 それが、休刊を報じた各メディアによると、2022年12月の印刷証明付発行部数は、7万4125部にまで落ち込んでいたそうだ。

 日本出版販売株式会社(=取り次ぎ大手のニッパン)によると、2022年末の段階で営業継続中の書店は、全国で8642店。ただしコンビニが全国で5万6919店ある(2022年1月段階。業界紙調べ)あるので、両者合計すると、ようやく1軒に1冊ずつ行き渡るかどうか、ということになってしまう。

 なおかつ、こうした媒体の広告料金は部数によって変わるので、詳しく説明させていただく紙数はないが、これで黒字を見込むのは難しい。紙媒体というのは経費も大変なのだ。

 実は私の古い友人の一人に、現在はフリーランスだが、かつては朝日新聞社の社員で、この雑誌の編集部に在籍していた人物がいる。

 彼が同誌の編集部員だったのは、1980年代末から90年代初頭にかけてのことで、世はまさにバブル景気。

「当時は毎号黒字だったし、まさか将来潰れるなんて、夢にも思いませんでしたね」

 と語ってくれた。

 休刊の沙汰となった理由についても、端的に、

「対外的には大きな声で言っていなかったけど、一貫して〈国民雑誌〉というコンセプトで作ってましたからね。『週刊朝日』さえ読めば、一週間の世の中の動きが分かる、と」

「ところが今、みんなスマホを持っているから、電車の中で情報が手軽に得られるでしょう。週刊誌なんて、役割を終えたということですよ」

 と指摘した。これは「関係者の証言」だが、それでなくとも異論は出ないと思う。

 たしかに私たち昭和世代にとって、週刊誌は重要かつ身近な情報源であった。

 とりわけインターネットなどなかった当時、海外在住の日本人には、日本語の活字を読む機会そのものが限られているので、日本から送られてくる週刊誌は有り難い存在だった。読み終えた後でも友人知人に進呈すると喜ばれたものだ。

 前述のような事情で『週刊朝日』も送られてきたが、ギブ・アンド・テイクで、こちらもロンドンで発行していた週刊日本語新聞を献呈したし、取材に手を貸したこともある。

 1989年に秋篠宮の婚約内定が報じられた際など、くだんの友人から、

「宮がオックスフォードに留学していた当時の話とか、取材できませんか」

 と頼まれた。たしかに秋篠宮は1988年に学習院大学法学部を卒業した後、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ動植物学科に留学し、同大学博物館の研究員にもなっている。

 頼まれれば、当方オックスフォード大学少林寺拳法部のコーチをしていた関係で、人脈がないこともない。早速、現地で長く暮らし、日本人観光客や留学生のアテンドをしていた日本人女性に電話で協力を求めたところ、わざわざ留学生寮まで出向いて、留学中の秋篠宮が、

「僕のガールフレンドだよ」

 と言って写真を見せて回っていた、という情報を得てくれたのである。

望外の収穫だったが、画竜点睛を欠いたと言うか、その写真の女性と、婚約者の川島紀子さん(旧姓名)が同一人物だと判断できる根拠はなく「特ダネ賞!」とはならなかった。

もうひとつ週刊誌がらみの思い出があって、1990年に私は『欧州ジャーナル』という新しい日本語メディアを立ち上げたわけだが、その際スポンサーになってくれた旅行会社の社長から、こんなことを言われた。

「我々が喋ってることなんて、みんな『週刊文春』に書いてあるようなことと『週刊新潮』に書いてあるようなことを足して二で割って、それをいかにも自分の意見みたいに喋っているだけなんだからさ。そういう風に書いておけば間違いないんだよ」

 その「我々」とやらに、まさか林信吾は含まれていないでしょうね、と喉まで出かかったが、まあ「それを言っちゃあオシマイ」なので……という話ではなく、昭和の世にあって、メジャーな週刊誌というものが、どのように作られ、どのように読まれていたか、その一端でも読者にお伝えすることができたなら幸甚である。

 今次のことであらためて思ったのだが、半世紀近くの長きにわたって、週刊誌と付き合ってきた。

 少年漫画誌を別とすれば、雑誌を自分で買って読むようになったのは高校時代で、よく『週刊プレイボーイ』を読んでいた。

 女性アイドルのグラビアが冒頭で、社会問題から若者文化、車の話まで、とにかく「少国民雑誌」みたいな趣があった。実際、これ1冊読んでおけば、クラスの話題について行けない、ということはなかったのである。

 そうではあるのだけれど、情報の質・量ともに、早々に物足りなさを感じるようになったこともまた事実で、成人してからはもっぱら専門誌を購読するようになった。具体的には『軍事研究』や『サッカーマガジン』だが、よく思いだしてみると高校時代も、実際にバイクを乗り回す連中は、やはり専門誌を読んでいた。

 早い話が「国民雑誌」と言えば聞こえはよいが、要は「広く浅く」情報を伝えるだけのメディアは、早晩見捨てられる運命にあったのではないか。前出の『週刊プレイボーイ』と覇を競っていた『平凡パンチ』も、1988年に休刊している。1990年代には、複数の週刊誌の編集幹部から、

「部数は前世紀の半分ですね」

 と聞かされた。

 私は今も『週刊文春』は購読を続けているが、今度また生活の拠点を海外に移す時には、電子版に切り替えるつもりでいる。

 寝そべって週刊誌をパラパラとめくり、気になった記事から読んで行く、という楽しみは失われるが、やはり時世時節というもの。ここはあえて昭和の流行語に寄せていうなら、

「これでいいのだ」

 と思うことにしよう。

(つづく)

トップ写真:週刊朝日相関100周年

出典:週刊朝日公式twitter @wasahisns

 

 




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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