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.国際  投稿日:2019/1/26

英国新聞事情(上)~ロンドンで迎えた平成~その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・英国の新聞は各紙それぞれ政治色がはっきりしている。

・英社会では階級により読む新聞も好むスポーツも異なる「区別」が存在した。

・平成の30年はインターネットが世界を制した時代である。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=43831でお読み下さい。】

 

いよいよ平成最後の年となった。この30年の総括は、多くの人が様々なメディアで書くであろうから、私はちょっと趣向を変えて、昭和が終わり平成が始まった日々の思い出を書かせて戴こうと思う。なぜなら、その時私は、地球の裏側であつ英国ロンドンにいて、なおかつ現地発行日本語新聞の記者として、在英日本人向けの報道に携わるという、希有な経験をしたからだ。

海外から、あるいは外国人の目を通してみると、普段は意識することもない日本の様々な側面に気づかされることがよくあるが、私にとっての昭和から平成への改元は、まさにそうしたものであった。

手始めに、昭和天皇の崩御を報じた英国の新聞記事を紹介させていただこうと思うが、何事にも予備知識を持っていただく必要がある。まず、新聞そのものがブランケット判(一般的な日刊紙サイズ)タブロイド判(「日本で言うと『日刊ゲンダイ』や『夕刊フジ』のサイズ)に大別されるのは日本と同じだが、英国の場合は伝統的な階級社会を反映して、ブランケット判の新聞を読むのは中産階級で、労働者階級はもっぱらタブロイド判、という区別があった。ブランケット判をわざわざ「高級紙=クオリティ・ペーパー」と呼ぶ習慣さえあったほどである。

もちろん、誰がどの新聞を買おうがまったく自由なので、誰もこのことを差別とは受け取らなかったようだ。それ以上に特徴的だったのは、新聞によって政治的な論調がかなりはっきり分かれていたことである。

最近でこそ、日本の新聞も、たとえば『読売』『産経』が安倍政権を応援し、『朝日』『毎日』が反安倍、という色分けになっていると皆が思っているが、昭和の当時には、実態はどうあれタテマエとしては「公正中立」を標榜していたものだ。

この点、英国の新聞は昔も今も政治色がはっきりしている。今でもよく覚えているが、日本でも有名な『タイムス』紙は伝統的に保守党支持層が読むもので、リベラルな層は『ガーディアン』紙を読むものとされていた。

かの国ではまた、中産階級はラグビーやクリケットを好み、もっぱら労働者階級がサッカーを好むとされ、こちらの話は昨今わが国でもよく知られるようになってきたようだが、本当は例外などいくらでもある。

▲写真 Huntingdonshire District Councilチームのクリケットの様子 出典:U.S. Air Force photo by Tech. Sgt. Chrissy Best

これに対して、新聞の選択にはあまり例外がなく、逆に言うと、どの新聞を好んで読むかで、その人の出身階級や政治的立場を推し量ることができると考えられていた。前にも述べたように、差別と受け取る人はほとんどいなかったが、かの国で昔から言われる「ゼム・アンド・アス=彼らは彼ら、我々は我々」という「区別」は厳然と存在した。

日本のマスコミの特派員が、ロンドンで知り合った英国人ジャーナリストから、「こちらでは新聞はなにをお読みになりますか?」などと突然尋ねられて当惑した、などという話も、よく耳にしたものだ。

ちなみに私自身はと言うと、留学生だった頃は『ガーディアン』を読み、後に『インディペンデント』に変えた。政治的主張を表に出さない、ということを売り物にした高級紙で、ロンドンにおいては外国人ジャーナリストという立場になったので、新聞は必要十分な情報源でさえあればよかったのである。

……こうして、当時を思い返しただけで、30年という時が流れたのだなあ、という感慨を禁じ得ない。今や、ここで名前を挙げたブランケット判の日刊紙は、いずれも休刊したり、タブロイド判に転向して生き残りを図っている。

読者ご賢察の通り、電子メディアとの競争に、ことごとく敗れ去ったのだ。電子版の発行は今も続けているが、無料でニュースが読めるメディアがいくらでもあるとなると、生き残るのはいかにも厳しい。

昨今の日本でも、電車の中で新聞を広げている人は減る一方で、みんなスマホを見ているが、日本の新聞の場合、海外ではあまり例のない宅配制度によって支えられているので、すぐに英国の日刊紙の後追いになることもないだろう。もちろん、10年、20年というスパンで見たならば、明るい未来など思い描くことはできないが。つくづく、わが国の元号で言う平成の30年間というのは、インターネットが情報の世界を制した時代だったのだな、と思う。

▲写真 情報収集はPCかスマートフォンから(イメージ図)出典:pixabay; FirmBee

天皇の病状が深刻、という情報がもたらされたのが、1988年の秋のことだったが、我々も編集会議で「Xデー」に備えることに決定した。その新聞は週刊だったのだが、いつでも号外を出せるようにしよう、というわけだ。

問題は情報を得る手段で、当時はまだインターネットが普及していない。日本に国際電話をかけて、友人から情報を聞き出す他はなかった。もう少し具体的に言うと、ロンドンと東京とでは時差が9時間(サマータイムの間は8時間)あるので、夜9時過ぎに電話をすると、ちょうど正午のニュースを見たばかりの友人や親族に連絡が取れる。その時点で大きな動きがなければ、その日の仕事は終わり、ということになった。

今思えば、よくもあんなプリミティブな方法で新聞が作れたものだが、当時のロンドンでは『英国ニュースダイジェスト』というその新聞は、在英日本人の間ではもっとも広く読まれていたのである。

この時期、毎晩編集部に残っていたのが、私ともう一人、契約ライターとしてロンドンの演劇事情を中心にコラムを書いてもらっていた小山内伸氏であったが、彼はまだ昭和のうちに帰国し、朝日新聞社に中途入社した。今では演劇評論家として活躍している。

こうして1988(昭和63)年が暮れ、いよいよ平成元年となる1989年を迎えることになったわけだが、この過程で、英国での新聞報道を通じて、あらためて考えさせられたことがあった。昭和天皇の戦争責任問題である。この話は、次回もう少し詳しく。

に続く)

トップ写真:新聞(イメージ図)出典:flickr;Jon S


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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