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.国際  投稿日:2023/3/23

世界を変えたミサイル防衛


古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1983年3月23日、米ロナルド・レーガン大統領が初めてミサイル防衛の新構想を発表した。

・この構想はソ連の崩壊の始まりを招く重要な要因となった。

・当初反対もあったが、それから40年、ミサイル防衛構想に反対する向きは皆無に近くなった。

 

3月23日といえば、ミサイル防衛を思い出す。ちょうど40年前の1983年3月23日、当時のアメリカのロナルド・レーガン大統領が初めてミサイル防衛の新構想を発表したからだ。この構想こそが当時、アメリカと対立し、日本をも含む自由民主主義陣営への巨大な脅威となっていたソ連共産主義政権をやがては崩壊へと追い立てる要因となったのだ。

現在の世界の安全保障ではミサイル防衛という構想を否定する向きはまずない。敵対する相手国のミサイル防衛は自国の攻撃力を減らすから反対、という事例は多い。中国などその典型である。だが自国に向かって飛んでくるミサイルを途中で迎撃し、破壊するという構想自体への反対はもうないといえる。現にロシア軍の侵略に対抗するウクライナはロシア軍のミサイルを連日、かなりの数、確実にミサイル防衛によって撃ち落としている。現にミサイル防衛が人命を救っているのだ。

さてレーガン大統領が発表した新戦略は公式には「戦略防衛構想:Strategic Defense Initiative」と呼ばれていた。略してSDIとされた。簡単にいえば、自国に向かって飛んでくるミサイルを途中で撃ち落とすという戦略だった。その迎撃の方法も敵のミサイルの上昇段階、そして高空を弾道を描きながらほ水平に飛ぶ飛行段階、さらには標的に向かって降りていく下降段階のどこかでそのミサイルを破壊する、ということだった。

この提案は全世界を驚かせた。ミサイル防衛はいまでは世界の常識だとはいえ、40年前は飛んでくるミサイルを中空、上空で破壊するという発想はアメリカ、ソ連のいずれにもなかったのだ。当時の核戦略のキーワードは「相互確証破壊(MAD)」だった。この概念はアメリカ、ソ連ともに核戦争となれば、核弾頭搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)で相手をほぼ完全に破壊する、という前提だった。その破壊が確実だから、たがいに核攻撃を自制するという思考だった。

この時代にはアメリカ、ソ連ともに核攻撃の奇襲を受けても、その第一撃による破壊を一定限度に抑え、残された核戦力で敵に対して核の報復を加える能力を保存することに全力をあげていた。

この戦略では敵が撃ってくるミサイルが自国の一部を破壊することは不可避であり、その破壊された状態からいかに報復攻撃ができるかが課題だった。

ところがレーガン大統領の新構想はこの大前提を打ち破り、ミサイルによる自国の破壊は不可避ではない、という発想へと切り替えたのだ。もちろんこの構想に実効を持たせるには高度の技術と巨額の資金を必要とする。アメリカはその構想の実現の戦いをソ連に対して挑み、勝利することを宣言したのだった。

私はこの時期、毎日新聞の記者として東京で外務省を担当していた。その1年ほど前に6年以上、務めたワシントン駐在を終えた後だった。このレーガン大統領のミサイル防衛構想が日本でも大きく報道された日、私はたまたま外務省内で取材に歩き、当時、戦略問題での権威とされた岡崎久彦氏の部屋を訪れていた。

岡崎氏はこの時期、外務省の調査企画部長という立場にあり、国際的な戦略やインテリジェンスを扱う専門家だった。まもなく新設された外務省初めての情報調査局の初代局長になった人である。この岡崎氏にミサイル防衛構想への感想を聞くと、次のような言葉が返ってきたのを覚えている。

「すばらしい発想です。これでソ連も窮地に追い込まれるでしょう。日本もアメリカに協力して、飛んでくるミサイルをどんどん撃ち落とせる能力を持つべきです」

岡崎氏らしい簡潔な論評だった。だが現実にはその言葉どおり、ソ連は苦しい立場に追い込まれていった。

当時のソ連の最高指導者はユーリ・アンドロポフ共産党書記長だった。改革の方向へ大きく動くゴルバチョフ氏の2代前のトップだった。ソ連はレーガン大統領のこの構想を危険な挑戦として非難した。だがその一方、アメリカが築くミサイル防衛網もソ連側も構築せねばならないと国力の総投入をも図ったことが後に判明している。

だがこのミサイル防衛構築の競争ではソ連はアメリカには敵わなかった。科学技術の水準、その水準を高めて軍事目的に資する財政能力ではとてもアメリカには及ばないことが明白だった。それでなくても当時のソ連はアフガニスタンに全面軍事介入して、その全土支配がうまくいかず、苦しい戦闘を続けていた。国力もそれに合わせて疲弊していた。そんな状況下でまたあらためてアメリカとのミサイル防衛の競争となると、余力がないという暗い見通しがいやでもはっきりとしてしまったのだ。

だからこのレーガン大統領のミサイル防衛の構想はソ連の崩壊の始まりを招く重要な要因となった。ソ連の共産党政権が完全に崩壊するのはまだその先の1991年だったが、その崩壊のプロセス、つまり終わりの始まりはこのミサイル防衛がもたらしたことをソ連側の旧指導者たちが後に告白していた。

しかし当のアメリカではこの戦略防衛構想への反対も多かった。共和党保守のレーガン大統領の政策にはなんでも反対という態度の民主党リベラル系の政治家やメディアはこの構想を「スター・ウォーズ」とあざけった。だがそれから40年、ミサイル防衛の構想や概念に反対する向きは皆無に近くなった。

日本でも朝日新聞は長年、このミサイル防衛に反対のキャンペーンをはってきた。2020年6月には当時の防衛大臣の河野太郎氏がすでに決まっていた秋田県などへの新型ミサイル防衛の「イージス・アショア」の配備を破棄した。いずれも国際的にその効果が認められ、大多数の諸国で採用されている飛んでくるミサイルの中空での破壊というシステムの現実には逆行する動きだといえる。

この3月23日というタイミングでついミサイル防衛のそんな歴史までを思い出し、現在の課題としても提起したいと考えた次第である。

トップ写真:SDIを発表するレーガン大統領(当時)1983年3月23日 SDIはStar Warsと呼ばれた。 出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images 

【訂正】2023年3月25日23時22分 以下を訂正しました。

まとめ1998年3月23日→1983年3月23日




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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