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.政治  投稿日:2023/6/14

「高岡発ニッポン再興」その82命がけで消費税導入・・・青木幹雄さんの教え


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・「参院のドン」青木幹雄さんが亡くなられた。

・青木氏は竹下元総理と大蔵省とのパイプ役となり、1988年に消費税関連法案を成立させた。

・青木氏は「汗は自分でかきましょう。手柄は人に与えましょう」とよく言っていた。

 

「参院のドン」と呼ばれた青木幹雄さんが亡くなり、衝撃を受けています。私の亡妻が島根県出雲市出身。青木家と親戚ということもあり、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていました。今から思えば、政治の本質を学びました。ご冥福をお祈りします。

5月にも幹雄さんの長男で、参議院議員の青木一彦さんと会ったばかりでした。「お父さんと森元総理は今もよくあっているのですか」と聞くと、一彦さんは「私が代理に会ったりしています。おやじと森さんが会うと目立つからね」と答えていました。

「90歳近くなのに元気ですね」と私が言うと、一彦さんも頷いていました。てっきり元気だと思い込んでいました。ちなみに青木幹雄さんは早稲田大学雄弁会で、森元総理の先輩でした。

  私が青木幹雄さんに初めてお会いしたのは、1991年でした。時事通信社の記者として松江支局に赴任していたころです。妻との結婚の報告に行ったのです。一彦さんと妻が幼なじみということもあり、妻のことも幼いころから、よく知っています。突然赴任した私との結婚でしたが、喜んでいらっしゃいました。第一印象は腰が低く謙虚で、人の話をよく聞く方でした。

  青木さんは参議院議員1期目で、当時はまだ、それほど知られていません。竹下元総理の元秘書で、地元では「竹下登さんからもらった、竹下のネーム入りのスーツを着ていた」といううわさもあり、竹下さんにほれ込んでいるようでした。当時は、竹下さんを支える立場で、決して「ドン」ではありませんでした。

  私が東京に戻ってから、しばしば、家族で青木さんの参議院の議員宿舎に誘われました。食事をしながら、いろいろなことを教えていただきました。森さんとの大学時代の思い出話、さらには派閥が違っても、ずっと付き合っているとのことなどを楽しそうに語っていました。

しかし、最も印象深かったのは、大蔵省(現財務省)との関係です。当時は、竹下派が絶頂期です。

  「大蔵省とうち(竹下派)はいい関係だわね。竹下さんと私が命がけで消費税を導入したんだから。大蔵省の官僚はいろいろな情報を教えくれる」。

  消費税導入は大蔵省の悲願でした。大平内閣、さらには中曽根内閣でも検討しましたが、導入できませんでした。消費税を持ち出すと、選挙で大敗したのです。

関係者によれば、青木さんは竹下元総理と大蔵省とのパイプ役となりました。そして、1988年12月に消費税関連法案が成立したのです。

青木さんは「政局の人」と言われていますが、「政策の人」でもありました。消費税導入という政治家にとって最も困難な課題に、立ち向かったのです。忍び寄る少子高齢化の現実から目をそらさずに、対峙したのです。あの時、竹下・青木コンビがいなかったら、消費税導入はさらに遅れていたでしょう。日本の財政は大幅に悪化していたでしょう。

それ以降、青木さんは、財務人脈を築きました。最強省庁のエリート官僚が「青木さんには頭が上がらない」と、絶賛したのです。

 

 青木幹雄さんが参議院幹事長、参議院会長、さらには官房長官となりました。いつしか、「参院のドン」という異名を持つようになったのです。その発言で、政局事態が大きく動いていました。私自身はそれほど、幹雄さんご自身とお会いしませんでしたが、参議院議員の一彦さん一家とは家族ぐるみでお付き合いしました。

  青木さんは、竹下元総理の言葉として、「汗は自分でかきましょう。手柄は人に与えましょう」とよく言っていましたが、その言葉通りの人生でした。

  そして、私は、大事なことを教えていただきました。困難なことに立ち向かうことこそが政治なんです。私も政治家の端くれとして、青木幹雄さんの教えを胸に刻んで精進します。

トップ写真:第19回参院選 開票に立ち会う小泉純一郎首相(中央)と青木幹雄参院幹事長(右)(どちらも当時) 2001年7月29日 東京都千代田区 自民党本部 出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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