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.社会  投稿日:2023/10/12

平成25年の年賀状 「10年ひと昔」・「父との生活」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

平成25年の年賀状 「10年ひと昔」・「父との生活」

 昨年の末、といってもつい一〇日ほど前、事務所恒例のイヤーエンド・パーティーをしました。二八回目、新しいパレスホテルです。

 三四年前、私はこのホテルの隣にかつてあったAIUビルで働き始め、ホテルの部屋に次々と明かりが灯ってゆくのを横目で眺めながら、書類の頁をめくっていました。

心のなかはいつも太陽が輝いていて、まばゆいばかり。

 私の大脳のなかには、あの以前のホテルの建物も、皇居のお堀に沿った隣のビルへの通路も、クッキリと存在しています。

 「去年の雪はどこへ行ってしまったのか」

 一五世紀のフランスの詩人も、二一世紀のビジネス・ローヤーも同じです。記憶している自分のなかにすべてがあります。その上にまた今年の雪が降り積みます。

どうか、皆さまにとって今年が素晴らしい年となりますよう。

 

『10年ひと昔』

【まとめ】

・ジャニーズ問題、①独立社外取締役が過半数の取締役会 ②上場を目指すと宣言すべし、と取材に答えた。

・利害関係がない社外取締役が過半数の取締役会をつくらなくてはいけない、とも述べた。

・「関係者」が社長や副社長になり、半数に満たない独立社外取締役のいる取締役会で再スタートしようとしても、分社しようがしまいが、世間の信頼を得ることができるとは思えなかった。

『10年ひと昔』

「三四年前、私はこのホテルの隣にかつてあったAIUビルで働き始め」とある。つまり、今から返り見れば44年前ということだ。確かに計算は合う。29.5歳、3月末で検事を辞めて弁護士になったのだった。

「私の大脳のなかには、あの以前のホテルの建物も、皇居のお堀に沿った隣のビルへの通路も、クッキリと存在しています。」と確信をもって断言している。10年前のことだ。では、いま現在、そう言えるだろうか。どうも少しあやしい気がする。

往時茫々。

63歳は60歳と同じ、60歳は50歳とほとんど同じこと。それなら50歳は40歳と似たものとも言えそうだ。そうなれば、40歳は30歳に、30歳は20歳に、とつながる。

去年ならば73歳は、と始めて同じように言えたかもしれない。しかし、今となってはなんとも怪しい。

大きななにかが肉体の上で起きたのか。

確かに尿路結石ができた。しかし、それは7月13日にレーザーで除去した。そのために3泊4日で入院したのだった。

だが、そんな一つ一つの具体的なことではない何か、得たいの知れないなにかがこの身に起きつつあると感じ始めている。

「心のなかにはいつも太陽が輝いていて、まばゆいばかり。」と書いたのはついこの間のことなのに。今の私は、こころのなかにいつも太陽が輝いているとは感じない。未だ日は暮れていない。それどころか夕焼けが目にまぶしくなるには未だまだ間があるつもりでいる。

しかし、確実に近づきつつあるものの小さな足音がそう遠くないところから耳に届いてくる。あの聞こえるか聞こえないかのかすかな物音は、いったい何の音なのか。

たった10年。

「記憶している自分のなかにすべてがあります。」と感じたのに、どうやらもうすべてを記憶しているわけではないとわかっている。そんなことはありゃしないさ、まだまだ、と抵抗してみてもいい。しかし、他人へは何とでも言いつくろえるが、自分についた嘘は、いつも、すべて、お見通しだ。

「その上にまた今年の雪が降り積もります。」か。根雪になりそうな気配ではないか。

どうやら奥手の人間だったということでしかないのか。

最近はコーポレートガバナンスについてメディアの方々から取材されることが多い。「二一世紀のビジネス・ローヤー」の面目躍如ということになるのかもしれない。しかし、それも偶然の積み重ねに過ぎない。私がコーポレート・ガバナンス・ネットワークというNPOの理事長になったのも、創業者にして前任の理事長だった田村達也さんに頼まれてのことだったに過ぎない。あれは2013年の夏のことだった。正式に後継となったのは年末近くだった。

そのコーポレート・ガバナンス・ネットワークで「失われた30年 どうする日本」と題した特別プロジェクトを始めたのが2021年の7月だった。田原総一朗さんとの対談が第一回だった。それから1年間。最後にも田原さんに出ていただいた。

そのプロジェクトがBSテレ東の「これだ!日本」という番組に発展した。2020年の10月、最初のゲストに岸田総理をお迎えした。インタビューは、いつもニュースキャスターの安倍宏行さんとごいっしょだった。また1年。最後のゲストに新浪剛史経済同友会代表幹事をお迎えして9月2日に終わった。新浪さんは「明日は明るい」と言い切った。

その他にも、会社の不祥事を巡って、あるいはM&Aに際して、新聞や雑誌の記事に登場させていただくことは数限りない。

9月7日にはジャニーズ事務所の記者会見があったと思っていたら、すぐに夕刊フジの旧知の海野記者からご連絡をいただいた。コーポレートガバナンスの観点から、と言われ、私は①独立社外取締役が過半数の取締役会、②上場を目指すと宣言すべし、100%株主でも即時、簡単にできること、と答えて翌日の紙面を飾った。

その後、10月2日の二回目の記者会見までに世間には批判、非難があふれ、ジャニーズ事務所は名称を変更し、新会社を設立することになった。しかし、詳細は明らかではない。一部では860億の節税をしたという相続税を払うという藤島氏の決断がその間にあった。

二回目の記者会見の日、私はテレ東のWBSから取材を受けた。カメラと音声の方々も交えての3人での取材だった。

テレビの画面で、冒頭、「進歩しました」と述べて、私は一定の評価をしている。

そして喜多川氏が大犯罪者であること、独立した社外取締役が過半数の取締役会をつくらなくてはいけない、と断言した。

テレビ局の方に、「独立とは?」とたずねられ、私は、身を乗り出すようにして、

「利害関係がない、ということです。」とゆっくりと述べた。後から画面を観て、私自身、わかってもらえるといいなと感じた。

実は、最後の質問は、取材を一応終えたところで担当の方が、もう一点だけ聞きたいことがある、といわれて、録画と録音を再開してのやりとりだった。 

私はコーポレートガバナンスの観点からは、常に独立した社外取締役が取締役会の過半数でなければならいという考えは持っていない。むしろ反対である。日本の現状の会社の人的構成、すなわち生え抜き従業員が幹部になり経営にたずさわっている状況からは、社内取締役の存在をそれとして生かしてゆくことが大事だろうと考えている。それには、独立社外取締役への情報へのアクセスの問題や、独立社外取締役を補佐する取締役会事務局の独立性の問題もからんでいる。

ただ、ジャニーズ事務所の関係者は、9月7日にジャニーズ事務所という社名を継続するという判断を是とした方々である。そうした「関係者」が社長や副社長になり、半数に満たない独立社外取締役のいる取締役会で再スタートしようとしても、分社しようがしまいが、世間の信頼を得ることができるとは思えなかったのである。

執行と監督。コーポレートガバナンスの大原則の問題である。 

「去年の雪はどこへ行ってしまったのか」は、もちろん、フランスの詩人であるフランソワ・ヴィヨン(1431頃〰1463年以後)の一節である。ヴィヨンを知ったのはどういう経緯だったのか。読んだのは『ヴィヨン全詩集』 (鈴木信太郎訳、岩波文庫, 1965)だったに違いない。ランボー経由か鈴木信太郎に教えられたのか。大学時代のことである。 

本を読むのが趣味だと思って何十年になるだろうか。ほとんど趣味というようなものが何一つない生活を送っているのだが、これで本人は至極満足して暮らしている。仕事が忙しく、その合間に本を読むことができるからである。

本を読むのは、机に向かって読み、ベッドに寝っ転がって読み、また机に戻って読む。その繰り返しである。休日で仕事のない日はまことに快適である。眠くなれば顔に本が落ちてくる前にベッドの下に本を置いて眠り、目が覚めれば体をのばして本を取り上げて読みさしのままだったところから再び読み始める。

いつも、大小のポストイットとマーカーを身近においている。 

しかし、である。

本を読むのが趣味というのは、なんとも意味不明ではないだろうか?

どんな本でも本でありさえすれば読むというのだろうか。

20世紀半ばころの英国の小説家サマセット・モームはこう書いている。

「読み物がないと、時間表とかカタログを読む。これは控えめな言い方だ。私は陸海軍ストアの値段表、古書店の目録、鉄道時刻表などを読み耽って愉しい時間を過ごしたことがある。いずれもどこかロマンスの雰囲気があって、最近の小説のいくつかなどよい、はるかに面白いと思う。(『サミング・アップ』111頁 岩波文庫 行方昭夫訳)

64歳の時の感想である。

私の場合は読書が休息である。いや休息以上である。必要欠くべからざるものであり、短い間でも読書ができないと、薬の切れた中毒患者のように苛々してくる。」(同頁)というモームだけのことはある。

私にも似たところはある。たとえば、トイレの個室に入るとき本がないときは本を取りに戻る。勝手な想像だが、そういう方は意外なほど多いのではあるまいか。もちろんスーパーや不動屋のチラシは格好の時間塞ぎである。

だから、どんな本でも読むのである。しかし、読みだして面白いと感じられる本でなければ遠慮なく放り出す。昔は最後まで読まないではいられなかったが、もう残り少ない時間を無駄に過ごしたくはないという思いがまさる。それに私は買わない本を読むことはほとんどない。代金を払い終わっているのだから、著者へも出版社へも最低限のご挨拶は済んでいるというものである。 

では、どうやって読む本を選ぶのか。

行きあたりばったりに本屋で本を選ぶ愉しみを説く方もいる。思いもかけない出逢いがあるというのである。賛成である。羨ましいとすら感じる。

だが、私の場合は書評であり、読んだ本のなかでの言及である。巻末のビブリオグラフィーによることもある。

私は何種類もの日刊紙を読んでいるから、そうした新聞の書評欄でどれほどたくさんの本と引き合わせていただいたことか。 

たとえば、たった今『植物はなぜ動かないか』(稲垣栄洋ちくまプリマ―新書 2016)を読み終わった。

この本に出逢ったのは、日経新聞のおかげである。2023年の1月14日、土曜日の『半歩遅れの読書術』と題されたコラムに落合恵子さんが書いておられ、そこでこの本が紹介されていたので存在を知ったのである。

実は、著者である稲垣栄洋さんの書かれるものは昔からファンだった。だから、落合さんの紹介を読んだときには、「おや稲垣さん、また新しい本を出されたんだな、そいつはいい、さっそく買って読まなくっちゃ。」と思ったくらいなのだ。

いつものように、新聞のその部分にポストイットを付けてアウトボックスに出しておくと秘書とその手伝いの方が手配してくれ、数日で手元に届く。私なりのシステムである。

ところが届いた本の奥付をみて驚いた。なんと2016年の出版なのである。もう11刷になっていることにも感嘆する。本を出版したことのない方には実感がないだろうが、11刷というのは大変な売れ行きということである。私が2017年に出した『少数株主』が文庫本になったのが2018年のことで、それが最近になってやっと6刷になった。6刷になるだけでも大きな達成である。

落合さんご自身もある女性の友人に薦められたと書いている。子どものころのこと。「大きくて太い欅の幹に両腕を回し、耳を押し当てると不思議な音が聞こえた。当時学生だった伯母が、欅が地下水をくみ上げる音だと教えてくれた。」と思い出話を書いていらっしゃる。

なるほどなあ、と感じる。 

同じときに、私は『綿の帝国』(スヴェン・ベッカート 紀伊国屋書店 2022 鬼澤忍・佐藤絵里訳)を読み始めてもいる。並行して何冊もの本を読むのは私の習慣なのだ。こちらの本は848頁もある大分の本である。こうした厚い本は『時間の終わりまで』(ブライアン・グリーン  講談社 2021年 青木 薫 訳)の637頁以来のような気がする。なに、一度に読破する必要などないのだ。少しずつ読んでいけばそれでよいのだ。現に『時間の終わりまで』はそうやって、ずいぶん長い日々を愉しんだものだ。 

仕事は急ぐことが当然の世界である。相手あってのことだからである。

だが、趣味である読書は?私が気ままに決める。独りだけの世界だからである。悪くない。

 

『父との生活』

【まとめ】

・父親にはたくさんのことを教えてもらった。

・「歳よりの気持ちというものは、実際に歳をとってみないとわからないものだ。」

・団塊の世代は、明日は今日よりも豊かになるものと信じて疑いもしなかった。

父親が老人で私が青年だったころのことである。

父親は私によく言って聞かせたものだ。

「歳よりの気持ちというものは、実際に歳をとってみないとわからないものだ。」

そして、

「歳を取るというのは毎年々々なだらかに取っていくのではないんだよ。何年間も少しも変わらないでいる。それで自分は歳を取ることなんか無縁だ、なんて思っていると、ある瞬間に、おやっおかしいな、なにか変だなと思い知らされる。そういうふうに歳というものは階段を下りてゆくように取って行くものなんだよ。」とも。

私は父親が35歳の時の子どもだから、たぶん、父親が今の私くらいだったのだろうか。

一度だけではない。なんども同じことを口にしていた。

その父親は、90歳を過ぎるとよく「もう死なないような気がしてきた。」と述懐し始めた。昔、エッセイストの山本夏彦もそう言っていた。もちろん、二人とも亡くなった。三段論法におけるソクラテスである。人は皆死ぬ。ソクラテスは人である。ゆえにソクラテスは死ぬ。 

そういえば今の私の年齢だったころ、父親は歯の磨き方を若い私に熱心に教えてくれたものだった。

父親は自分の歯が残っていること、20本以上あった、そいつが自慢だった。

「それは偶然じゃないんだよ。こうして――と父親は歯ブラシを手にして口の中で動かしながら――毎回ていねいに磨くことが大切なんだ。」

私は、若者の例に漏れず、聴いているふりをしていただけだったのだろう。年寄の垂れる教訓話というのはそういうものだ。あれは目の前に相手がいて話しているつもりでも、しょせん独り言でしかありえないものなのだろう。

今の私は、父親が教えてくれたようには歯を磨いてはいない。それどころか、どう磨くようにと教えられたのかすら忘れてしまっている。あのときには自分の歯のことなど心配していなかったのだ。

今の私の歯の磨き方は、一度に二通りのやり方を繰り返すのが常だ。一度目は歯と歯肉の間を横に、歯ブラシを斜めに構えて前後に動かして磨く。上、下、それぞれの表と裏とがあるから、それだけで4回。次いで縦に、つまり歯の生えている方向に沿って下から上に、あるいは下から上に、歯ブラシを回転させるように。これも上、下、表、裏とあるから4回である。それがワンセットだ。朝と夜に行う。桃の柔肌を傷つけない程度の圧力で十分だとなにかで読んだことを心がけている。

毎回ていねいに磨いていることが、父親の教えを守っていることになるのだろう。父親は別の柔らかい歯ブラシも持っていて、それでどこかを磨くと教えてくれたのだが、忘れてしまっている。喉の奥に差し込んで、そこへの付着物を取り去るということだったような気もする。

父親は豊富な時間のなかにいたのだ。58歳で営業譲渡をしてしまって不動産の上がりで生活するようになっていた。私は、74歳のいまも弁護士業にいそしんでいる。 

私は、若いころから、週に一度、日曜日が来るごとに両親に電話をしていた。電話をすればたいていは父親が先にとり、二人で話す。1時間になることもしばしばだった。それから母親と話すことになる。場合によっては話さないで終わってしまうこともあった。母親とすればずいぶん物足りない思いだったのではないかと、いまにして申し訳ないことだったと反省している。

海外に出張すれば、国際電話をしていた。

その両親、ことに父親との何十年と続いた日曜日の電話で、あるとき父親が「もう愉しいことを聴くだけにしたい。」と言ったことがあった。

「それではせっかく二人では話している意味がなくなってしまうじゃないの」という私の声に、

歳をとるとね、もう不愉快なことは耳に入れたくなくなるんだ。だから、愉しいことだけを話してくれ」と、一種、断固として、答えた。だからといって私が両親に電話する習慣は絶えることはなかったが、私なりに淋しい思いはあった。 

父親にはいろいろなことを教えてもらった。

たとえば、学生時代のこと、二人で飛行機に乗って私が洗面所に行ったとき、手を拭いた紙タオルで洗面器の水をキチンとふき取ってから出てくるんだよと教えてくれた。未だ紙タオルの珍しい時代だった。

「飛行機のなかで飲む紅茶が、どういうわけかとても美味しくてね」と話してくれたこともあった。

私が子どものころには、鉋(かんな)の掛け方を手取り足取りで見本を示しながら教えてくれた。

「鉋はね、ゆっくりと引くんだ。急いではいけない。歯の出し方が大切だよ。出し過ぎてもいけないが、歯が出ていなくてはそもそも鉋がかからない。ほら、こういう薄くてふわっと浮き上がるような削りくずがでてくるようなのがいいんだ。」

それは、鰹節の削り方でも、鋸の引き方でも同じだった。私が力をいれてせかせかと鋸を動かしているのを見て、鋸を使うときには急がないこと、力を入れ過ぎないこと、撫でるように、ゆっくりと、と諭してくれた。とくに日本式の鋸は押して切るのではなく、引いて切るのだとも、鋸の目を指さしながら教えてくれた。確かにそのとおりだった。

今の私はもう鉋はもちろん、鋸を使うことも、それどころか鰹節を削ることもない。パックに入った削り済みの鰹節が、それなりに美味しい。時代である。しかし、白衣の料理人が目の前で鰹節を鰹節削り器でゆっくりと薄い天女の羽衣をつくるかのように引いてくれ、たっぷりとあるその削り節をふっくらと炊き上がった白いご飯に載せ、ほんの少しの醤油をたらして食べることがある。そうした一瞬には、日本人にしかわからない美味しさの感覚なのかなと思いながらも、人生はこの悦楽で定義されるんだなと一人納得する。 

父親にはたくさんのことを教えてもらった。いっしょに兄の使っていた自転車にペンキを塗りなおしたことがあった。海老茶色のペンキを塗ったのだが、前のペンキを十分に剥がすことを怠ったせいでか、きれいな仕上がりにはならなかった。それでも、私は自分の手で塗り上げた自転車を嬉々として乗り回していたものだ。 

父親は昭和10年、1935年に重電製造会社に入社した。20歳だった。「今でいうとソニーみたいな感じかな」と言われたのは、私が子どものころのことだ。本当は東京海上に入りたかったのだが、高等商業で可愛がってくれた先生が、毎年東京海上に一人推薦枠を持っていたので期待していたのだが、どういうわけか「その重電会社は素晴らしい会社だよ」と強く入社を勧めてくれたのでそれに従うしかなかったのだということだった。

さらに、中途で退社して今の一橋大学である東京商科大学へ進学したかったんだと漏らしたこともあった。会社の同僚にはそうやって何年か遅れで一高、今の東大に入った人もいたのだという。父親によれば、一橋からなら外交官になる道が開かれていたので、外交官になりたかったんだよということだった。なんでも、東京商科大学へは父親の卒業した高等商業からは進学の便宜がはかられていのだという。

ところが母親、つまり私の祖母に、やっとここまで苦労を重ねて育てたのだからもう勘弁してくれと泣いてすがるように言われて諦めたとのことだった。

そんな父親だったから、日常、突然フランス語の詩句を口にすることがあった。第二外国語はフランス語だったのだ。 

国立の高等商業を出ていたので、早慶などの私立大学出身者よりも2歳若いのに、同じ月75円をもらうことができたのだという。ちなみに東大をでていれば月100円だったそうだ。その他に、軍需景気のおかげで会社はたくさんのボーナスを払ってくれたので、豊かな青春を送ることができた。

たとえばレコ―ドの収集である。もちろんSPの時代である。また、カメラにも凝った。当時はドイツのライカが憧れの的であり、家一軒の値段だったと聞いた。私の東京時代、6歳から10歳までの間に私は父親にDPE,現像と焼き付け、それに引き伸ばしを手伝わされたものだった。

小さなちいさな真っ赤な電球の灯りだけの空間で、フィルムを薬品で処理する。両側にぶつぶつと穴の並んだフィルムに小さな、白黒が逆になった映像が現れてくる。現像である。

そのフィルムを、底が広くなった縦に長い、四角い器具の上に置いて、上から強い光を当てて引き伸ばして焼き付ける。小さな二人だけの空間を満たしていた薬品の匂いを覚えている。バットという底の浅いホーローの四角い洗面器に、薬品を溶いた水が満たされているのだ。そのバットの水溶液に焼き付けたばかりの印画紙を浸すと、少しずつ少しずつ、魔法のように画像が浮かび上がってくる。その印画紙を別のバットに張った水で洗い、出来上りである。

自分が写真好きでツァイス・イコンというドイツの会社の、蛇腹でレンズを引き出すコンパクトなカメラを持っていた。これは今も兄の手元にある。私にもコニレットという小さなカメラを買ってくれた。

小学生だった私は、このコニレットには苦労した。というのは、コニレットというカメラは横穴のないフィルムを使っている特殊な方式だったのだ。遠足に行った先でフィルムを買おうとしても、コニレット用のフィルムは売っていないところが多く、とても残念な思いをしたものだった。 

後に私が学生として東京に住むようになると、出張に上京した父親と銀座を歩いていると、中古写真機店があるたびに父親は立ち止まって覗きこむ。飾ってある一つひとつの中古の写真機について、あ、これはね、と学生だった私に説明せずにおれない様子だった。父親は50代だった。私がゼンザブロニカという名を知り、ハッセルブラードなどという好事家した知らない名前を憶えているのは、こうした折の会話からだった。

銀座では四丁目の角にある和光をいっしょにのぞいたこともあった。「手を打触れて壊したりしたら、どれも高いものだからね、気を付けて」と言われた。今、私はその店で買い物をすることがある。行くたびに父親といっしょにいたときのことを思い出して、こそばゆい気がする。 

上京してきた父親は私のアパートに泊まるのが習慣で、夕食を二人でたびたび摂った。私がしゃぶしゃぶというものを生まれては初めて食べたのも池袋の東武デパートのなかにあったスキ焼の名店でのことだった。スエヒロといったと思う。こんなに美味しいものがこの世にあるのかと感じた記憶がいまでも鮮烈に残っている。

そういえば、同じ東武デパートのなかにある北浜という和食屋では、鰹のタタキというものを初めて口にした。これも鮮明な記憶として残っているほどに美味に感じた。 

父親は昭和10年、1935年に入社して間もなく徴兵で兵隊になった。そこで軍隊の内務班でどれほどひどいリンチを受けたかを何度もなんども聞かされた。

あげく結核にかかり、除隊となったのは戦争が終わる前のことで、再び東京は丸の内での勤務に戻った。当時の結核にはストレプトマイシンといった特効薬はなかった。それで父親は極端に栄養に気を配っていた。

給料はすべて食べてしまったね、というのが口癖で、食後に果物がいつもあった。小さな庭に生えている柿の若葉を摘んで薄くスライスして食べたりもしていた。納豆の食べ方も独特で、卵と海苔と鰹節、それにネギを刻んで入れる。私は後の浪人生として上京して寮に入ったおり、朝食に出た納豆に驚いた。そこには小さな器に納豆だけがポツンと置かれていたからである。 

46歳のときにゴルフを始め、それが一生の趣味、いや趣味以上の生活そのものになっていた。雨の烈しい日にもゴルフに出かける。雷が鳴ったらアイアンのクラブを空に向けて突き立て、そこに雷が落ちて死ねば本望だと半ば本気で言っていたほどだった。中年で始めたが10年経たずしてシングルになり、シニアとはいえクラブ・チャンピオンには何度もなっていた。友人たちとこそかしこのゴルフ場に遠征することも愉しみの一つだったようだ。 

そんな父親を含めて6人の家族の面倒を見ていた母親はどれほど大変だったろうかと、今になって感慨がある。

父親は、日曜日の早朝、忘れたころに突如、窓、カーテンや障子を開け放ち、バタバタと1人掃除を始めて、眠っている家族をたたき起こすことがあった。父親なりに清潔に暮らしたいのにそれが叶わないままに我慢している日々への苛立ちが爆発することがあったということなのだろう。

私の母親はとても明るい、料理の上手な、子ども思いの、優しい女性だった。しかしとても清潔好きだったというほどではなかったような気がする。父親も、自分が結核の療養をしていたときには、母親が神経質に清潔好きでなかったので助かったと言っていたりもした。

私がまだ覚えていないほど幼かったころ、沸いている鍋のお湯を頭からかぶりそうになったことがあり、母親はとっさに自分の左脚で受けたという。もしそうでなかったら。私は別の人格になっていただろう。母親が死んだ日、私は改めて母親のヤケドの後のある左脚をさすったものだった。 

父親は経理や総務の人間だったから、夕食時にいないことは先ずなかった。

その上、広島の上幟町に移ってからは昼ごはんを食べに帰宅していた。ついでながら次男である私も小学校の給食ではなく自宅で昼ごはんを摂ることが許されていたから、そのころにはなにも思わないでいたが、母親にしてみればどれほどの負担だったろうか。

ときに母親がいないと、父親がどこでならったのかバターライスを作ってくれたこともある。祖母がいたときには、舟焼きと称して小麦粉をフライパンで焼いて扇型に切って食べさせてくれたこともあった。

まことに、絵に描いかような、サザエさんの漫画のような家庭生活を送ってように思い出す。現実には嫌なこともたくさんあったのだろうが、もう忘れてしまった。

しかし、総じて私の生活は父親の給料に支えられて標準以上の暮らしだった。

そうでない小学校の友人もいた。大変優秀な成績の男だったが、家庭の事情で受験というものができず、おそらく中学を出たところで就職したに違いない。

それでも、私たち団塊の世代は、明日は今日よりも豊かになるものと信じて疑いもしなかった。彼もそれなりの人生を送ったに違いない。我々の世代はそう信じることができる世代である。

トップ写真:記者会見に臨むジャニーズ事務所東山紀之社長と井ノ原快彦副社長 (2023年10月2日東京都・千代田区)出典:Jun Sato/WireImage/GettyImages




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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