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.社会  投稿日:2023/3/15

平成8年の年賀状


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・わたしは、大きな内紛がある会社の顧問弁護士だった。

・頼みにしていた社外取締役は沈黙し、社長は解任された。

・30年前、「他人の会社のことには口を出せません」と言った社外取締役の方々、今はどうだろうか?

 

年頭にあたり皆々様のご健勝をお祈り申し上げます。

 昨年のご報告を一、二、申し上げます。

 夏に転居致しました。境川という旧江戸川の分流の小さな川を越えただけですが、久しぶりの引っ越しでした。思えば、生まれてから三二になる迄に一四回家を変わりましたが、その後の一四年間は、動かないでいたことになります。

 秋、能登半島に出掛けました。輪島の朝市で、「時雨る」という美しい響きの言葉の示すものを、頭や肩や背中で感じ取ることが出来ました。

 毎朝。東京駅の地下五階から一気に一三〇段の階段を二段ずつ登ります。地上へ出ると息が切れ、汗ばんできます。そしてタクシーの運転手さんに「どうしたんですか?」と訝しげに尋ねられます。寒い冬の朝に窓を開けられる運転手さんにしてみれば迷惑千万なことでしょうが、実は私にとって唯一の運動なのです。

 「アンヌ・マリー帽」という帽子がどんな帽子なのか、とうとう去年も分かりませんでした。十九世紀の末頃、鷗外がベルリンにいた頃、欧州で流行ったはずと目星はつけているのですが。

 何とぞ本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。

社外取締役――30年前の風景――』(小説)

「アンヌ・マリー帽」についての疑問は長く解けていないでいた。この年賀状を受け取った方が親切にも鷗外のなかにでてくると教えてくださったのも、今では懐かしい思い出である。鷗外の『普請中』という短編小説に出てくる帽子だが、私が当時読んでいた筑摩書房版の森鷗外全集には「注(一六)」となっていながら、「未考」となっていたのである。須藤松雄という方の語注となっている。それで、どなたかに教えていただこうと年賀状に書いたのである。 

 ところが、『普請中』を読み返してみると、文中には単にアンヌマリー帽とあるのではなく、「麦藁の大きいアンヌマリイ帽」とあるではないか。早速グーグルで検索してみるとそれらしい画像が出てきた。さすがに「珠数飾り」のついたのは一見したところでは見つからなかったが、それにしても、「麦藁の大きな」というだけでも、麦わら帽子だと気がつきそうなものなのにと、昔の自分が滑稽に思われてしまう。

私に鷗外に出ていますよと教えてくださった方は或る著名な上場会社で税務を担当していた方だった。私はその会社の顧問弁護士として親しくしていただいていたのである。 

その会社では大きな内紛があった。顧問弁護士であった私は当然のように社長派ということになり、そのうち取締役会が割れていることがわかってきた。

超大手のコンサルタント会社と親しくしていた社長は、「株主が大事だ」と言われました、と私に告げた。私は、その有名な超一流コンサル会社のアドバイスに呆れるとともに、社長に、「株主ではなく、いまの状況では取締役の頭数の問題です。取締役の過半数の支持を失ったら、社長はいつでもクビになるんですよ。」と警告した。

その私のアドバイスに対して、社長はあっけらかんとしていて、「大丈夫です。ウチは社外取締役が多いんです。社外の方々は私の味方ですから」とうそぶいていた。たしかに、財界のお歴々といった方々の名前が取締役として多数あった。 

社長がだんだん社内で追い詰められていく様子は、顧問弁護士の身にも伝わってきた。私との相談に、以前と違って私の事務所に出かけてくるようになり、私の用意した粗飯を「こういうのが美味しいですね」といいながら召し上がるようなことが何回も重なるようになっていった。

顧問弁護士は、社内取締役の力関係についてはわかるものではない。社内のことは社外の人間にはわからない。顧問弁護士でも社外取締役でも同じことである。社内の人間が伝えてくれたことだけが材料である。もちろん材料の料理には腕を振るう余地がある。しかし、それも材料次第なのである。魚の切り身からはトンカツをつくることはできない。

私の事務所に来ていることを見つからないように、事務所の入り口からではなく裏口から出入りしてもらったりもした。しかし、そもそも社長は会社の車で私の事務所に来ていたのである。私の事務所に向かったことどころか、そこに何時から何時までいたかなどすべての詳細な報告が担当の役員に上がっていたにちがいない。どうやら担当の役員は反社長派であったらしく、私の名は会社の有力な取引先でも取りざたされていたという。

週刊誌にも会社の内紛は大きく取り上げられた。私は車内の吊り広告で依頼者である社長の顔にも対面したことがあった。

結論はあっけなく出た。

取締役会の前夜、私の自宅に社長から電話がかかってきた。

「先生、社外取締役が裏切りました」

という知らせだった。

「つぎつぎと電話があって、みな口をそろえたように『明日は欠席する』と言うんです。なぜかとたずねると、『他人の会社のことに口は出せません』とはっきりしたもんです。」

私には意外ではなかった。

今から30年以上も前の話である。コーポレート・ガバナンスなどという言葉は聞いたこともなかった。その会社にたまたま社外取締役として財界の重鎮が何人もそろっていたのは設立の経緯からそうなっただけのことである。もちろん、そのときの社長が頼んではいるのだろうが、その後の社長が人選に口を出すことができたわけでもない。

昔はそんな風だったのだ。 

取締役会当日、私は顧問弁護士として取締役会に出席した。弁護士が取締役会に出席することは珍しい時代だった。私の姿を見かけた社長室担当の取締役は、「なんであんたがここにいるんだ」と非難の言葉を投げつけた。私はなにも答えなかった。私は社長に頼まれて取締役会の場にいるのだ。私を追い出したければ取締役会で決議するしかない。

社長の解任議案が出たとき、反社長派があらかじめ用意していた弁護士が取締役会の場に姿を現した。

反社長派は別の弁護士を頼んでいたのだ。計画されたクー・デターだった。 

目の前で社長解任の議案が可決されそうになり、私は取締役会にこう提案した。

「社長を解任すれば、これだけの会社です。それ自体が大きなニュースになります。

私と社長と二人で話す時間をください。」

社長本人を含めて、誰にも異議はなかった。

二人だけで別の部屋で対面すると、社長は、

「先生、私は負けませんよ。頑張ります。

取締役会で決議したって、先生を頼りにして裁判で戦います。」と意気込んだ。

私は、「斎藤さん、そうは行かないんですよ。私は会社の顧問弁護士です。あなたが社長でなくなった瞬間、別の社長が選ばれたその瞬間から、私はその方の指示で働く弁護士になるんです。私は会社の利益のために働く弁護士なんです。」

一瞬社長は驚きの表情を浮かべた。理由がわからないのだ。なにが起きているのか事情が呑み込めていない様子だった。

私は同じことを繰り返し、「取締役会の席に戻りましょう。私から、社長は自発的に辞任するので、もう解任の決議は不要だと皆さんに申し上げます。なによりも会社のためです。皆さん、きっとわかってくれます。どなたも登記簿に解任などという不名誉な記録は残したくないはずです。」 

翌日の新聞は社長の辞任を報じた。がっくりと肩を落としている前社長の背中からの写真が紙面を飾った。私は、会社のために良かったと感じていた。顧問弁護士としてやるべきことを果たしたという満足感と、個人的には社長に忍びない気持ちとがない交ぜになっていたが、法律家としてはすっきりしていた。 

もう30年以上前のことである。

もちろん、ここに書いたとおりのことがあったわけではない。これはあくまでフィクションである。材料はあった。だが、魚の切り身はトンカツに変わっている。それは作家としての技であると思っている。もちろん社長の名は斎藤ではない。

関係した人の多くは鬼籍に入ってしまった。私は40歳になったばかりだった。

だが、この社外取締役についての経験は、私がコーポレート・ガバナンスを考えるときに忘れることのできない出発点となっている。当時の、財界の錚々たる人々は「他人の会社のことには口を出せません」と宣言したのだ。

今は違うだろうか?

(了)

トップ写真:イメージ 出典:getty images / sihuo0860371




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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