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.国際  投稿日:2024/1/2

米中のネオ・デタントが始まる?(下)【2024年を占う!】国際


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・米中は台湾海峡でにらみ合う状況に経済面で耐えかねるようになりつつある。

・米中のネオ・デタントは長くは続かない米中ともに少し「時間稼ぎ」がしたいだけ。

・トランプ大統領の再登場なら、ウクライナ、パレスチナの戦役で壮大な「ちゃぶ台返し」が行われる。

 

デタント(détante)とは、もともと「くつろぐ」「緩む」という意味のフランス語から来ていて、外交用語としては、もっぱら「緊張緩和」の意味で用いられる。

1970年代の前半から中盤にかけて、世に言うオイル・ショックなどにより世界経済が減速したことから、米国と当時のソ連邦との間で核軍縮が進んだ時期に、人口に膾炙するようになった。

その後1979年、ソ連邦によるアフガニスタン侵攻を機に、今度は「新冷戦」と呼ばれる状況が始まったが、最終的には社会主義が完全に行き詰まり、1989年から1991年にかけて、冷戦の終結からソ連邦崩壊という流れになったことはよく知られている。

米中は、その外交史において、よりドラマチックな展開を見せた。

1972年2月21日、時のリチャード・ニクソン大統領は、補佐官(国家安全保障担当。翌1973年、国務長官に就任)のヘンリー・キッシンジャー博士を伴い、中国を電撃訪問。

同じく時の首脳であった、毛沢東主席、周恩来首相と会談し、それまでの敵視政策を排して国交正常化を目指すという共同声明=世に言う上海コミュニケを発表した。

写真:電撃訪中したニクソン米大統領と周恩来首相との会談。キッシンジャー大統領特別補佐官(当時)も同席(1972年2月 北京)出典:Photo by © Wally McNamee/CORBIS/Corbis via Getty Images

その頃日本では、こんなことが起きていた。

長野県北佐久郡軽井沢にある、河合楽器健保組合の保養所に、ライフルや猟銃で武装した5人のテロリストが、管理人の妻を人質として籠城。駆けつけた警官隊と銃撃戦を繰り広げた。世に言う「連合赤軍あさま山荘事件」である。

この事件を引き起こした連合赤軍とは、その名の通り赤軍派の一部と、京浜安保共闘というふたつの極左過激派集団が野合したものであるが、後者は毛沢東主義派と呼ばれる潮流に属していた。

嘘か本当か知らないが、あさま山荘内のTVで、米中の首脳がにこやかに握手を交わすシーンを見た面々は、唖然としていたという。中国共産党と連携して米帝国主義と戦う、というイデオロギーに身命を捧げて銃を取ったはずが……そう考えると、満更あり得ない話でもなさそうに思える。

そもそも時の日本政府でさえ、このニクソン訪中については事前になにも知らせておらず、茫然自失となった政治家や外交官は、一人や二人ではなかったと伝えられる。

どうしてこのようなことが可能になったのかと言うと、ひとつの大きな理由は、ニクソン大統領が、キッシンジャー博士の「新しい勢力均衡論」を受け容れたことにある。

煎じ詰めて言うなら、米ソ二極化の時代はそう長くは続かない。この先は、中国、日本、それに統合されつつあるヨーロッパが、国際社会でそれぞれ存在感を示すようになるであろう、とする考え方だ。当時としては非常にユニークであったこの外交理論は、前述の米ソのデタントにも少なからぬ影響を与えている。

今年11月29日、キッシンジャー博士は永眠。享年100の大往生であった。合掌。

ちなみに、米中の正式な国交回復は1979年のことで、これに関しては日本の方が先んじた。1972年9月29日、田中角栄首相が中国を訪問し、周恩来首相と会談。日本が「中華人民共和国を唯一の合法政府と認める」との声明を発表。中華民国とは自動的に断交した。

この会談に毛沢東主席は立ち会わなかったが、会談を終えた直後の二人に、

「もう喧嘩は済みましたか?一度とことん喧嘩をしないと、本当の仲良しにはなれません」

と声をかけた。

これについて、今では米中の国交回復に向けて、日本が「露払い」を演じさせられたのだと見る向きが増えてきているが、当時の日本のマスメディアは中国礼賛一色だと言って過言ではなく、前述のような経緯で毛沢東が「聖人」になったきらいさえあった。

またしても「ちなみに」だが、朝鮮戦争で敵味方になった米中と異なり、日本は中華人民共和国に対して、一度も国交断絶を宣言していない。このため国交回復でなく「正常化」と称されている。

ここであらためて、前回の最後の方で触れた、米英が中国との対話路線に舵を切るのではないか、という観測について、根拠をあらためて掘り下げてみよう。

と言っても、それほどややこしい話ではない。

冒頭で述べたところの、米ソがデタントに傾斜した背景を今一度読み直していただきたい。その上で、オイル・ショックを新型コロナ禍に置き換えていただけたならば、私の言わんとするところが、容易にご理解いただけると思う。

今や米中は、競争で軍備を拡張しながら台湾海峡でにらみ合う、という状況に、主として経済面で耐えかねるようになりつつあるのだ。

英国にせよ、EUからの離脱によってこうむった諸々の不利益をカバーするためにも、中国との関係改善が急務と考えているからこそ、親中派として知られるキャメロン元首相が、スナク政権の外相に任命されたと考えられる。

日本でも、このところマスメディアを賑わせている、自民党安倍派・二階派の裏金疑惑から、政界再編成にまで至るのでは、と見る向きが増え、河野太郎氏にあらためてスポットライトが当たるようになってきている。

これについては、不確定要素があまりに多く、現時点では私見すら述べるのははばかられるが、彼に関して、親(河野洋平氏)の代から中国寄りだと見なされてきたということは、事実として指摘しておきたい。

以上を要するに、2024年に米英が中国への接近を図り、そうなれば日本も無関心ではいられなくなるとの観測を否定する要素は、ほとんど見当たらない。

とは言え、このような米中のネオ・デタントは、おそらく長くは続かないだろう。

これまた、さほど難しい話ではない。

中国は今、かなり深刻な経済危機に直面している。前回、軍需産業やIT産業の輸出が伸びるのではないか、との予測を開陳したが、国内で、いわゆる不動産バブルが崩壊し、製造業全体で見ればベトナムなどに取って代わられつつあり、若年層の失業率が増大している。軍需産業が少しくらい輸出を伸ばしたところで、焼け石に水である。

とどのつまり米中ともに、政権基盤をいま少し安定させるための「時間稼ぎ」がしたいだけなのだ。

さらに、大きな不安定要素が、一人の人物に求められる。その名をドナルド・トランプ

2024年は米国大統領選挙が行われる年だ。投票日は「11月の第1週の火曜日」と定められており、つまり11月5日となる。

バイデン大統領は、すでに再選を目指して出馬を表明しているが、前大統領のトランプ氏も「再登場」に向け、積極的に動いている。今後、共和党内での候補者指名レースに勝ち残らなければならないが、12月15日に発表された『ウォールストリート・ジャーナル』などの調査結果によると、毎度激戦区となるアリゾナなど7州で、トランプ氏の支持率がバイデン大統領のそれを上回ったという。

▲写真 大統領選キャンペーンを後にするトランプ前大統領。(2023年12月19日 アイオワ州ウォータールー)出典:Photo by Scott Olson/Getty Images

こちらも未だ不確定要素は多いが、もしもトランプ大統領の再登場となったら、壮大な「ちゃぶ台返し」が行われることが、十分考えられる。

まずウクライナでは、今年暮れの時点での戦況がどうなっているか分からないが、トランプ氏の過去の言動から、即時停戦という「錦の御旗」を掲げて、プーチン大統領のメンツを立てるような形で(具体的には、ウクライナのNATO加盟を阻止するなど)落としどころを探ることが十分に考えられる。

ガザ地区に関しては言うを待たず、現状バイデン政権が、イスラエルによる無差別攻撃を批判していることを逆に非難し、徹底したイスラエル寄りの姿勢を打ち出すだろう。

たとえば、イスラエルは目下、ガザ地区を縦断する道路の建設計画を示唆している。これまでの、パレスチナ人の居住地域をフェンスで囲う戦略から一歩踏み込んで、機械化部隊が常時パトロールできる態勢にするためだ。パレスチナ人たちにすれば、現状の「屋根のない牢獄」から、パレスチナの地を100%ユダヤ人のものとする、そのための布石だとしか考えられまい。

すでに、パレスチナの若者たちの中から、ハマスを中心とする反イスラエル武装闘争に共感する声が聞かれるようになっている。今次イスラエルがハマス殲滅に成功したとしても(おそらくそうなるだろうが)、数年後、新たな勢力が台頭してくるだけの話であろう。まさしく勝者なき戦いなのだ。

そもそも現代の戦争では、たとえ現象面で「勝利」を博したとしても、そこから得られるものなどなく、人命と国富の膨大な浪費に過ぎない。

このことを理解できない権力者がその地位から去らない限り、世界平和への道はまだ遠い。

はこちら)

トップ写真:握手する中国・習近平国家主席とバイデン米大統領(当時は副大統領)2013年12月4日 北京 出典:Photo by Lintao Zhang/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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