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.国際  投稿日:2024/10/11

タタ・グループの名経営者、ラタン・N・タタが死去


中村悦二(フリージャーナリスト)

 

【まとめ】

ラタン・タタが10月9日にムンバイで死去し、弔問客がタタ・サンズ本社前に

 集まった。

彼はタタ・グループを世界的な企業に成長させ、インドの産業発展に

 貢献した。

彼の死去は各紙で報じられ、インド発展に尽力したとして称えられた。

 

 

インドを世界に通用するように努めたラタン・ナバル・タタ(ラタン・N・タタ)が2024年10月9日の夜、インドのムンバイの病院で死去した。病名は発表されていない。

タタ・グループの持ち株会社であるタタ・サンズの本社前の道路は翌朝、弔問客でごった返したと報じられた。

彼はグループ企業を、自動車、ソフトウエア開発などの分野のトップに引き上げ、グループを世界的なグループに育て上げた。

翌日、新聞各紙は彼の死去の報を伝えた。「インドを世界に通用するように努力したラタンを失った」(タイムズ・オブ・インディア紙)、「ラタン・タタ、86歳で死去」(CNN)、などと彼の死去を悼む記事が相次いだ。

 出自は拝火教徒-インドの産業発展に貢献

 タタ・サンズの株式の66%を所有するのはタタ・トラスト(タタ財団)。従って、タタ財閥の名は、他の財閥一族のように長者番付に登場しない。それには訳がある。タタ財閥はインドにあって異色の存在なのだ。

タタ・サンズの創業は1868年。創業者のジャムシェドジー・タタは、父親と友人が経営する貿易会社に入り、香港に駐在した。同社はインドから綿花とアヘンを持ち込み、中国から茶、香料などを輸出していた。

ジャムシェドジー・タタの出自は、イスラム勢力が侵入したササン朝ペルシャ(現在のイラン)を逃れ、10世紀ごろにインド亜大陸の西海岸のグジャラート州に居住することを当時の藩王に許可されたパールシー(ゾロアスター教徒=拝火教徒)なのだ。

ジャムシェドジー・タタは綿紡績、水力発電、ホテル経営、鉄鉱石の採掘、その鉄鋼石を原料とした製鉄など、英国植民地下の地場資本としては野心的な事業を構想し、推進した。

英国のインド政庁とかけ合い、インド科学技術大学院大学(IISc)をインド政府、地元のマイソール藩王と共同でバンガロール(現ベンガルール)に設立することにも尽力した。

IIScは現在、4000人以上の学生・院生を擁する研究・教育機関となっている。2005年にIIScを取材した折、ジャムシェドジー・タタがIIScの模型を手に載せる立像があったのを覚えている。

綿紡績などの事業の多くは、ジャムシェドジー・タタの長男で2代目会長のドラブジー・タタの時に実現。この2代目に子供がいなかった。

タタ・グループの発展の礎を築いたのは、1944年1月にグループ会長に就任したJ・R・D・タタだ。先見性に富んだ彼が1970年代央に設立したソフトウエア部門は現在、世界有数のITサービス会社で、タタ・サンズの稼ぎ頭であるタタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)になっている。

ちなみに、ラタン・N・タタは、「パールシーのころ合いの相手がいない」とかで、独身を通した。

 1981年ラタン・N・タタにインタビュー

 実はラタン・N・タタに、1981年11月に都内でインタビューしたことがある。当時43歳だった彼は、「訪日途上のシンガポールで、J・R・D・タタから、タタ・サンズの子会社だが経営代理制度の下でタタ・グループ企業の経営代理を行っていたタタ・インダストリーズ会長への就任を命じられた」といっていた。

ラタン・N・タタは「タタ・グループは常に資本集約産業分野に注力してきた。今後は20年~30年先を見通し、エレクトロニクスなど新技術を導入すると同時に研究開発、エネルギー開発にも積極的に取り組んでいきたい」と語っていた。

 時代の生き証人でもあった人生

 ラタン・N・タタは米コーネル大で建築学を学び、一時、ロサンゼルスで就職したが、義理の祖母の求めに応じて、インドに帰国。

インド北東部のビハール州の重工業都市で、タタ財閥の所有地でもあるジャムシェドプールのタタ製鉄所などで実務研修を受けている。いわば、グループ企業のトップになるべく教育・研修を受けてきたといえ、労働争議の解決などにも関与してきている。

彼はタタ・インダストリーズ会長就任後、米国の大手コンサルタント企業と契約し、「タタ戦略プラン」の作成などに着手したが、タタ製鉄におけるタタ・サンズの持ち株比率が3%程度であったことに見られるように影響力行使には限界が伴った。

ラタン・N・タタがタタ・サンズ会長に就任したのは、インド経済が危機に見舞われた1991年であった。同年1月のインドの外貨準備は約7億ドルと、輸入に必要とされる2週間分にまで減ってしまっていた。

当時のナラシマ・ラオ政権は国際通貨基金(IMF)・世界銀行からの借款導入の条件とされた経済自由化策の実施に踏み切り、ルピー切り下げも実施した。この自由化策実施で、ライセンス・ラージといわれた1950年代来のインドの産業許認可制度の廃止が方向づけられた。

ラタン・N・タタはこうした時代をも生きてきた、「時代の証人」でもあった。

写真)プリツカー建築賞2015の授賞式でスピーチを行うラタン・タタ

   マイアミビーチ, フロリダ州 -2015年 5月15日

出典)Photo by John Parra/Getty Images




この記事を書いた人
中村悦二フリージャーナリスト

1971年3月東京外国語大学ヒンディー語科卒。同年4月日刊工業新聞社入社。編集局国際部、政経部などを経て、ロサンゼルス支局長、シンガポール支局長。経済企画庁(現内閣府)、外務省を担当。国連・世界食糧計画(WFP)日本事務所広報アドバイザー、月刊誌「原子力eye」編集長、同「工業材料」編集長などを歴任。共著に『マイクロソフトの真実』、『マルチメディアが教育を変える-米国情報産業の狙うもの』(いずれも日刊工業新聞社刊)


 

中村悦二

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