差別は紛争の母である(下) 「開戦の記憶」も語り継ごう その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・第2次大戦で日本の戦争意志の背景に、白人至上主義に対する怨念があったことは一応の事実。
・人種的優越主義に取りつかれていた米国の政治家の油断が、真珠湾奇襲の成功として返ってきた。
・日米でも、移民労働者を敵視する風潮が広まりつつあるように思えるが、非常によくない。
1994年に清谷信一氏と共著で、ヘクター・C・バイウォーターという英国の作家が書いた『The great Pacific war』を翻訳・出版した。
当時わが国では、なんとかの艦隊と銘打った架空戦記がブームになっており、KKベストセラーズから出版が決まったのも、そのブームに乗ろうとの思惑があったらしい。と言うのは、原題はどう考えても『太平洋大戦争』と訳すべきところ、ノベルズ版では『太平洋大海戦』とされてしまった。その後、コスミック文庫版と電子版(アドレナライズより配信中)では『太平洋大戦争』になっている。
日米戦争は、日本軍による奇襲攻撃でその火蓋が切って落とされる。南シナ海で、太平洋で、激闘また激闘。やがて米軍は、物量にものを言わせて太平洋の島々を飛び石伝いに攻略し、ついには米軍機が日本本土の上空に……
このような内容の小説が、真珠湾攻撃が敢行される16年も前(初版は1925=大正14年)に刊行されていたのである。
実はこの小説の中では、そもそもどうして日本が対米戦争を決意するかと言うと、関東大震災によって引き起こされた社会的・経済的混乱を背景に、国民の不満が高まって、革命さえ取り沙汰された。そのような反政府感情を逸らすため……ということになっている。古来、内政に対する不満を対外戦争によって解消しようとした例は、枚挙にいとまがない。
現実の日米戦争にせよ、米国による経済封鎖を打開すべく、蘭印(オランダ領インドネシア)の油田など南方資源を抑えてしまうのが戦略目的で、そのために最大の脅威となるのがハワイの米太平洋艦隊なので、開戦劈頭、奇襲でこれを叩いてしまえ、ということで真珠湾攻撃が敢行されたのであった。
もうひとつ、小説に描かれた日本軍による奇襲攻撃とは、パナマ運河を爆破することで、クライマックスの戦闘場面は戦艦を中心とした艦隊決戦である。航空機は兵器搭載量などが大きく進歩しない限り、決戦兵力とはなり得ないだろう、と本文に書かれてもいる。
そこで私は、
(訳注――この小説が発行された少し後、1930年代になると、航空機の技術は飛躍的に向上した。これを受けて、バイウォーター自身、この記述については〈訂正の必要があるかも知れぬ〉と語っている)
と書き加えておいた。したがって航空機による特攻作戦は描かれていないが、艦隊決戦において戦艦「陸奥」が、米軍をして、
「日本人は戦艦ぐるみでハラキリ的行動に出ようというのか」
などと言わしめる行動を取る。
もうひとつ、訳者として非常に興味深かったのは「ハワイ日系人武装蜂起」が、一章を割いて描かれていたこと。
問題はその大義名分、要するになにを目指しての武装蜂起だったのか、ということだが、小説の中では、単に日系人は合衆国よりも天皇に忠誠を誓っており、かつ日本軍の秘密工作員による扇動もあった。米国本土で日系人が受けていたひどい差別待遇については、もっぱら新聞が書き立てて国民の戦意を煽った、と簡単に触れられているだけだ。
現実はと言うと、主に本土西海岸では、レストランから市民プールまで、至る所で日系人の使用が拒否されたのである。
実際に、真珠湾攻撃が起きて日米戦争が始まると、彼ら日系人は強制収容所に送られた。国内の治安に対する脅威である、という理由で。
そこに人種的偏見がなかった、と考えるのは難しい。ドイツ系やイタリア系の市民は、そのような目に遭ってなどいないからだ。
あまり知られていない事実だが、1935年にムッソリーニ率いるファシスト・イタリア軍がエチオピアに侵攻した際、米国は経済制裁を課し、銅の禁輸という処置が執られた。当時、通信線や電線の材料と言えば銅で、つまりは不可欠な戦略物資である。
この時動いたのがイタリア系のマフィアで、薄い銅板ではがきを作り、これをイタリア系市民が買って、本国の親類に宛てて投函した。さすがに私信までは規制できず、時のファシスト政権はそのはがきを回収して、相当量の銅を確保したという。いかに多くのイタリア系米国市民が、ファシストを利することを承知ではがきを買ったか、という話ではないか。
ヒトラーのナチス政権に至っては、ドイツ系市民に対し、帰国して第三帝国のために戦うべきだ、などと宣伝していたほどだ。
ただ、ハワイにおいては真珠湾攻撃を受けて、日本人学校は閉鎖され、日系人のラジオやカメラは没収。日本語新聞は検閲を受けるようになったが、前述のような強制収容は行われなかった。理由は
簡単で、当時ハワイの日系人は、総人口約46万人のうち、15万人以上と最大多数を占めており、彼らをハワイから追放、もしくは収容所送りになどしようものなら、ハワイの経済が回らなくなる恐れがあったのである。
前回私が、日系人が強制収容所に送られたのは「単純な」人種差別ではなかった、と述べたのも、話がここにつながるので、米国西海岸においては、安い賃金で長時間働く日系移民が、白人労働者の職を奪っている、という図式を描けたが、ハワイにおいては、そこまで単純に割り切れなかったのだ。
さらに言えば日系人、主として米国で生まれた2世たちは、家族が収容所送りの憂き目を見ているにも関わらず、自分たちがよき米国市民であることの証しを立てようと、先を争うようにして軍に志願し、主にヨーロッパ戦線で活躍した。実に勇敢な戦いぶりで「2世部隊」として知られる第442連隊戦闘団などは、合衆国史上最も多くの勲章を授けられたほどであった。
ただし、2世部隊と言っても、将校は白人、下士官兵が日系人という構成であったことは付け加えておきたい。当時米軍の士官学校は、有色人種の入学など想定すらしていなかったのである。
話を真珠湾攻撃に戻して、時の政府が「だまし討ち」というキャンペーンを大々的に展開した理由は、ふたつある。
ひとつは、史上初めて米国本土が攻撃された事への怒りを反映したもので、これについては政治家より、むしろ一般市民の方が憤りを深めたようだ。
もうひとつ、油断していたのではないか、という批判をかわす狙いがあった。
どこまでが「油断」と言い得るかは、なかなか難しい議論になるが、米軍も真珠湾が奇襲を受ける可能性はあると見て対策を講じていた。だまし討ちと言われるが、そもそも日米戦争の最初の一弾は米海軍によって放たれている。湾外を哨戒していた駆逐艦が、波間に潜望鏡を発見して発砲し、日本軍の特殊潜航艇を撃沈したのだ。
ところがハワイの当直将校は、駆逐艦からの急報を受け、ただちに厳戒態勢を取るべきだ、との下士官からの意見具申にも、
「流木かなにかを見誤った可能性もある。確認するのが先だ」
と言って、これを退けてしまった。夜が明けて、空襲が始まってから司令部に駆けつけた当直士官に対して、下士官が、火の海と化しつつある軍港を窓越しに指さしながら、
「確認が先だと言いましたね。どうぞ確認して下さい」
と言い放ったエピソードは、日米合作の『トラ・トラ・トラ』(1970年)という映画のワンシーンにもなっている。
これが全てではなく、もともと真珠湾軍港は水深が浅く、かつ堅固に守られた要塞なので、ここを叩くには高性能の急降下爆撃機を使いこなす必要があるが、日本人にそんなことができるはずがない、などと、さしたる根拠もなく考えられていた。
ルーズベルト大統領にしてからが、なかなか強烈な白人至上主義者として知られ、
「日本人は目の構造上(細いということか?)、航空機の操縦には向かない」などという話を真に受けていたそうだ。
「欧米列強による植民地支配からアジアを開放するための大東亜戦争」
というのは、戦争が始まってから考え出された後付けの理屈に過ぎないので、私はこの呼称を認めていないが、日本の戦争意志の背景に、白人至上主義に対する怨念があったことは一応の事実で、また、人種的優越主義に取りつかれていた米国の政治家たちの油断が、結果的に「トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ、という暗号)」となって、その身に跳ね返ってきたのである。
このところ米国でも日本でも、移民労働者を敵視する風潮が広まりつつあるように思えるが、非常によくないことだと、私は強く思う。
人種融和主義や、それと表裏一体の排外主義・差別主義は、ろくな結果を招かないのだ。
(その3につづく。その1 )トップ写真:真珠湾で日本軍の奇襲攻撃を受けたアメリカの軍艦 出典:Photo by Hulton Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。