差別は紛争の母である(上) 「開戦の記憶」も語り継ごう その1

林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・太平洋戦争の開始から、今年で83年が経つ。
・官僚たちは米国に敗戦すると認識していたにもかかわらず、開戦の決定が下された。
・その理由として、白人至上主義が背景にあったと考えられる。
「帝国陸海軍は本8日未明、西部太平洋上においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この放送により、日本国民が太平洋戦争(この時点では、まだ〈大東亜戦争〉との呼称は存在しなかった)が始まったことを知らされてから、今年で83年が経つ。
臨時ニュースと銘打っていたが、実際は上記の文言の冒頭にあった「大本営陸海軍部発表」が1時間遅れで放送されたものだ。
ちなみに、太平洋上に日付変更線がある関係で、ハワイ現地時間では7日朝であった。米国のフランクリン・ルーズベルト大統領(当時。以下全て同じ)は、
「昨日、1941年12月7日――この日は汚名とともに記憶されるであろうが、アメリカ合衆国は大日本帝国海軍および空軍による意図的な奇襲攻撃を受けた」
と議会で演説。日本に対する宣戦布告を行うよう要請した。
83年後の今月9日には、空母「加賀」乗り組みの整備兵としてこの作戦に従軍し、メディアから「最後の生き証人」と呼ばれていた吉岡政光氏の訃報が伝えられた。享年106。合掌。
毎年夏になると、8月15日の終戦記念日をはじめ、各地で慰霊の催しがあり、戦争体験を語り継ごうとの文言がメディアにあふれる。
しかし、いたって当たり前の話ではあるが、戦争が始まらなければ「敗戦の記憶」もなかったのだ。
さらに、太平洋戦争は真珠湾攻撃によって始まった、と多くの人が考えているが、実際には英軍の支配下にあったマレー半島への奇襲上陸作戦の方が、2時間近く前に始まっている。当初の作戦計画では同時に始まるはずであったが、深夜に空母を飛び立った航空機が編隊を組むのは危険極まりないため、夜明けを待って攻撃目標(真珠湾)に殺到するよう、作戦プログラムが変更され、攻撃開始時刻が1時間半ほど繰り下げられたのである。
ただ、それは本シリーズの主眼ではない。
どうして日本が真珠湾攻撃のようなことをしなければならなかったか。言い換えれば、戦争を避ける道は本当になかったのか。その点をきちんと考察しなければ、本当の意味で戦争の歴史を語り継ぐことに貢献はできないと私は考える。
我々のように戦後生まれで、いわゆる戦後教育を受けてきた世代は、
「日清・日露戦争、そして第一次世界大戦と、昭和初期までの日本は、一度も対外戦争に負けたことがなかったので、日本軍は世界一強いと信じ込んでいた」
といったような歴史観をどこかですり込まれている。
しかし、軍事や戦史についてある程度の知識を蓄えたなら、必ずしもそうではなかった、ということが分かるのである。
事実、真珠湾攻撃を立案した連合艦隊司令僚艦・山本五十六は、駐在武官として在米日本大使館に勤務した経験があり、常々、
「テキサスの油田とデトロイトの自動車工場を見ただけでも、日本が戦争して勝てる国ではないことが分かる」
と語っていた。
実は開戦の年、若手の秀才官僚たちを極秘裏に集めて「総力戦研究所」というものが立ち上げられ、日米もし戦わば、というシミュレーションを行った。結果は「敗戦必至」。この結果は時の近衛内閣に伝えられたが、戦争意思を覆すには至らなかった。このことは、後でもう一度見ることとする。
いずれにせよ日米の戦力差については、少なくとも海の上層部は正しく認識していたのに、開戦の決定が下されてしまった。
その背景には欧米列強に浸透していた(現在もなくなったとは見なしがたい)白人至上主義があった、と述べたなら驚かれるであろうか。
1904年に勃発した日露戦争で、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を撃滅し、世界を驚かせた。しかしこのことは同時に、米国の政治家や軍人たちに、日本は将来、太平洋の覇権を争う相手になるとの考えを抱かせることにもなったのである。
また、1914年から18年にかけて第一次世界大戦において、日本は戦勝国に名を連ね、押しも押されもせぬ列強の一員となった。しかし同時に、戦争で疲弊したヨーロッパとは対照的に、戦時輸出で大もうけしたという、別の一面もあった。
「この戦争の収支が黒字となったのは日本だけ」
などと言われたのである。
これ以降、戦争の悲劇を繰り返さぬためにと、幾度も世界レベルで軍縮を目指す会議が開かれたが、米英は常に、日本の頭を抑えにかかっていた。具体的には、軍艦の保有数(総トン数)を、米英は10、日本は6に制限するとしたのだ。
これは非白人国家に対する差ではないか。そう考える人たちが現れたのも無理はない。
さらに言えば、当時米国に移民していた日系人は、ひどい人種差別にさらされていた。
単純な人種差別だけではなく、米国の白人に言わせれば、彼ら日本人は、善き合衆国市民になろうとせず天皇に忠誠を誓い続け、稼いだ金はどんどん日本に送金されている。もしも日本との間で紛争が起きたような場合、彼らは治安に対する脅威となる。
ただ、日本が人種差別撤廃を求めて、最終的に戦争に踏み切ったわけではないことも、また事実である。
第一次世界大戦の処理について話し合うヴェルサイユ会議において、国際連盟の創設が議題に上った際、日本は連盟参加の条件として「人種差別の撤廃」を綱領として掲げることを要求していた。
しかし、有色人種の移民が大挙流入してくることを怖れたオーストラリアや、かの国を含む英連邦の盟主である英国が反対に回った。
私は複数の著作で述べているが、後になって国際連盟から脱退し、孤立する道を選ぶくらいだったら、いっそ事時にテーブルをひっくり返してしまえばよかったのではないか。
しかし現実には、日本は中国大陸で得ていた権益を米英が保障することを見返りに、前述の要求を取り下げて国際連盟に加入したのである。
こうしたことを受けて、昭和天皇もその回想録の中で、戦争の遠因として人種差別があったことを示唆しているが、このあたりの評価はまことに難しい。
次回、もう少し掘り下げて見ることにしよう。
(その2に続く。)
トップ写真:真珠湾で日本軍の奇襲攻撃を受けたアメリカの軍艦 出典:Photo by MPI/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
