新聞と読者の戦争責任 「開戦の記憶」も語り継ごう その3
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・『昭和16年夏の敗戦』は、日米開戦前のシミュレーションで日本の敗戦が予測されたことを紹介している。
・戦争を止められなかった一因として、メディアが戦意を煽ったことが挙げられる。
・戦後、戦争を煽った新聞とその影響を受けた国民の姿勢を繰り返し記憶にとどめるべきだと警鐘を鳴らしている。
前回、英国人作家の手になる『太平洋大戦争』(拙訳)を紹介させていただいたが、今回はまず『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹・著 中公文庫)を紹介させていただきたい。
シリーズ第1回でも少し触れたが、タイトルにもある昭和16年、まさに日米開戦に先立つことおよそ半年という時期に「総力戦研究所」なるものが立ち上げられた。若手の秀才官僚たちを集めて「模擬内閣」を作り、もしも米国相手の戦争になったら……というシミュレーションを行わせたのである。
結果は「敗戦必至」。
開戦当初は南方の資源地帯を制圧することが可能だが、そこで産する資源を日本に運ぶシーレーンが米軍の潜水艦や航空機に叩かれ、その結果、日本の戦時経済はジリ貧から崩壊へと至る。そうなれば米軍は圧倒的な物量で、最終的には本土まで攻め寄せてくる。真珠湾攻撃と原爆投下を除いて、日米戦争の経緯をほぼ完璧に予測していたのだ。
この「研究結果」は時の近衛内閣に報告されたが、軍部の戦争意志を覆す力とはなり得なかった。
また、この時集められた秀才官僚たちは、そのほとんどが同研究所のことについては口を閉ざしたまま、戦後も官僚機構の中で生き残り、栄達を遂げたという。まったくもって戦争犠牲者は浮かばれない、と腹は立つが、本そのものはまことに面白い。
ここで見ておかねばならないのは、勝てる見込みのなかった戦争を、どうして止めることができなかったのか、という点だろう。色々なことが言い得るのだが、やはり見逃せないのは、メディア(当時はもっぱら新聞であった)が戦争を煽ったことだ。
よく、戦前・戦時下の新聞報道について、
「厳しい検閲があったので、自由に記事が書けなかった」
と語る人がいるが、これは話半分程度に聞いておく必要がある。
そもそも戦時下においては、大体どこの国でも新聞記事は検閲を受ける。と言うのは、
「OO部隊が昨日、××地点に移動した」
などということをうかつに書かれると、軍事機密が筒抜けになる恐れがあるからで、本来はそれ以上でも以下でもない。
むしろ問題なのは、国民の戦意を煽るような記事を、当時の新聞が積極的に掲載していたことである。
これまた、単一の理由ではない。
1931年に満州事変が勃発し、日本はまず宣戦布告なき戦争状態に入った。宣戦布告しようにも大義名分がなかったのと、ソ連邦が軍事介入してくる事態への恐怖が理由であった。
この「事変」だが、後の太平洋戦争と同様、緒戦の日本軍は圧倒的に強く、兵力においては圧倒的な中国軍を、数日のうちに万里の長城の南側へ追い落とした。
当時は1929年に始まった世界恐慌のまっただ中で、生活苦と閉塞感に満ちた世相であったのだが、そのような中、国民は久々に聞く景気のよい話=日本軍大勝利の報に沸き返ったのである。
しかしその「事変」は泥沼化し、景気のよい話どころか、次第に国民経済を圧迫するようになって行った。
たとえば1940(昭和15)年には東京オリンピックの開催が予定されていたのだが、たかだか駆逐艦1隻分の予算を捻出するために、新スタジアムの建設を断念せざるを得ず、開催権を返上する始末であった。当時の「事変」は国際的には日本による侵略戦争と受け取られており、たとえ開催できたとしても、多くの国がボイコットしたと思われるが。
現在なら、そろそろ中国大陸の問題を収束して、財政再建に舵を切るべきではないか、といった議論を展開するメディアがあっても良さそうに思われるが、当時そのようなことはまったく考えられなかった。
改革派と呼ばれる勢力が台頭したからである。
中国大陸での戦争が泥沼化し、財政負担が増大すると、このままでは財政の先行きが危ぶまれるので、ナチス・ドイツを見習った国家総力戦体制を作り上げねばならない、と考える「革新派官僚」と称される人たちが、まず発言力を増していった。よく知られる名前を挙げると、戦後、一度は戦犯として勾留されながら、首相にまでなった岸信介などだ。
そして一部の新聞社幹部も、彼ら革新派に同調して、
「世界一優秀な日本人が一致団結すれば、どこの国と戦争になっても負けはしない」
といった論調の記事ばかり掲載するようになっていった。
そして政権基盤が脆弱だった近衛内閣は、新聞を味方につけたいと強く願うあまりか、こうした革新派の論調に迎合し、最終的には、軍部を抑えきれないとして総辞職してしまった。かくして、東条英機内閣の誕生となる。
このように述べると、やはり軍部や政治家が悪いのでは、と思われるかも知れないが、それが全てではなかった、ということは明確にしておきたい。
読者=国民の間にも、日本人は世界一優秀、日本兵は世界最強といった記事を歓迎する空気が確実のあったのだ。多くの戦争体験者が、そのように証言している。
唐突だが、ある年代以上の読者は、バブル時代のことをご記憶だろう。無敵皇軍ならぬ無敵日本経済みたいな話が溢れていた。NTTの株価がほどなく1000万円(もちろん1株当たり)になるだろうとか、そうなればNTT一社の株価総額で当時の西ドイツ国籍の企業全てを買収できるとか、今思えば、こんなことを本気で考えていたのだろうか、と思える。
カリフォルニア州やアーカンソー州の農地を買い占め、米はそこで作って、日本は自動車産業などに特化すればよい、と主張したエコノミストまでいた。
日露戦争の講和が取り沙汰された際、ある大学教授が、
「バイカル湖から東の領土を全部取ってしまえ」
などと主張した。これはさすがに「バイカル博士」などと揶揄されたと聞くが、案外、このような意見を真に受けていた人もいたのではないか。と言うのは、講和条約が締結されても、ロシアから賠償金の支払いはなされないと知るや、各地で抗議集会が開かれた。1905(明治38)年9月5日に日比谷公園で開かれた抗議集会など、暴動に発展して、多数の検挙者が出たのである。
当時の日本には戦争を継続する力など残されていなかったのだが、やはり人間はどこか、自分が信じたいものだけを信じる、という性癖を備えているのではないだろうか。
昨今も、新型コロナ禍は一応収束したとは言え、景気はなかなか上向かず、それどころか諸物価は高騰して民心は不安定になる一方である。
「新しい戦前」などということがよく言われるが、政治家やメディアの論調が右傾化する原因を掘り下げると、やはり、そうした議論ばかりを歓迎する人が増えてきているからではないか、と考えざるを得ない。
……ここまで書いた時に、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡邉恒雄氏の訃報に接することとなった。享年98。まずはご冥福をお祈りいたします。
ただ、この人が発行部数日本一という「天下の読売」の威光を背景に、故・中曽根康弘氏を総理にするよう、故・田中角栄氏に働きかけたり、一貫していわゆる改憲勢力の後ろ盾となっていたことは、記憶に留められるべきだと思う。
21世紀の日本が再び進路を誤るようなことがないように、戦前の新聞人たちと、彼らの言動を歓迎した国民の声は、繰り返し記憶にとどめられるべきであると、私は思う。
冒頭写真)ニューヨーク・ヤンキースとタンパベイ・デビルレイズの歓迎レセプションで、日本酒の樽を割るバド・セリグ氏、松井秀喜氏、読売ジャイアンツのオーナー渡辺恒雄氏(2004年3月27日 日本・東京)
出典)Koji Sasahara/Pool/Getty Images