ベトナム戦争からの半世紀
その11 運命の年の幕開け

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1975年初頭、北ベトナム軍がフォクロン省を制圧し、南ベトナムは喪に服したが、大規模な反撃は行わなかった。
・アメリカの援助増加を期待した南ベトナム側の政治的意図もあったが、アメリカは動かなかった。
・北ベトナムはこの結果を受け、南全土を制圧する大軍事作戦を1975年中に開始する戦略的決断を下した。
1975年はベトナム戦争にとっての運命の年となった。より正確にはベトナムという国家、ベトナム人という民族にとっての運命の年となった、ということであろう。ベトナムの歴史が一変した年と呼んでもよいだろう。
この新しい年の早々、サイゴンは喪に服した。南ベトナム政府のグエン・バン・チュー大統領は1月8日から3日間、首都サイゴンの映画館、劇場、ナイトクラブからスポーツクラブまで、娯楽に近い施設すべてを閉鎖する命令を出したのだ。1月末の旧正月テトを間近に控えた、あわただしい首都の空気は一変した。国営テレビからも娯楽番組が姿を消し、鎮魂歌が重々しく流れた。
その喪の理由は南ベトナムの1省が北ベトナム軍に制圧されたことだった。サイゴン北方300キロほどのカンボジア国境のフォクロン省が攻撃を受け、省都のフォクビンが占領されたのだ。
攻撃に出たのは北ベトナム人民軍の正規部隊の第7師団だとされた。カンボジア国境沿いに潜伏していた第7師団は前年12月中旬からフォクロン省内で攻勢に出た。そして激しい砲撃と歩兵の突撃で省内の郡都を次々に占拠した。1月2日には省都フォクビンにソ連製T54戦車10台以上が突入した。防御側の南ベトナム軍は市内の深い塹壕に立てこもり、反撃に努めたが、抗せず、4日には省都の外の密林へと撤収した。
北ベトナム軍による南の省都の軍事占領はパリ和平協定成立後の初めての動きだった。南ベトナム全体の44省のうち、革命勢力に省都やその主要部分を完全に支配されたという省はなかったのだ。私が革命地区に潜入した中部ビンディン省でさえ省都や中枢は南政府が抑えていた。
南ベトナム政府は「停戦違反の侵略的行為」とする非難の声明を内外に向け、発信した。南側にとっては不吉な新年の幕開けだった。
だがフォクロン省の陥落を南ベトナム側からみていて、腑に落ちない点もあった。南ベトナム軍がこの北ベトナム側による重大な協定違反の軍事行動に対して、それほどの抵抗や反撃をしなかったのだ。南のチュー大統領は北の第7師団がつぎつぎに郡都を制圧しても、反撃のための増援部隊を投入しようとはしなかったのだ。
私自身も現地の情勢を少しでもみようと、フォクロン省の南端まで車を走らせ、状況を観察した。だがその周辺が奇妙に静かだった。激戦の跡も予兆もまったく感じられなかった。南ベトナム側にはなお公式には合計110万人もの兵力があったのだから、もっと明確な反撃があって自然だった。
この点についてサイゴンの政府筋をあれこれ取材すると、南ベトナム政府はアメリカに対して減少がちの援助を増すことを求め、あえて北ベトナム側の好戦性や侵略性を強調するために激しい反撃をしなかったのだ、という観測を複数の関係者たちから聞いた。
確かに北軍の行動は和平協定の重大な違反だった。アメリカの軍事や経済の援助が減っていることも事実だった。南ベトナム政府側に無抵抗により北側の侵略行動の非を強調するという意図があっても、ふしぎはなかった。
しかしアメリカ政府はこの北軍の「侵略」の結果、南への援助を増すという動きはとらなかった。アメリカ国務省は「北ベトナムの和平協定重大違反に強く抗議する」という声明を出した。だが政府も議会もそれ以外には特別な措置はとらなかった。アメリカ国内ではそれほどベトナム離脱の意思が強かったということだろう。
だが北ベトナム側にとってはこのフォクロン省制圧はきわめて重大な戦略的意味があった。北ベトナムは戦争終結後まもなく人民軍参謀総長のバン・チエン・ズン大将の長大な回顧録を発表した。同大将が総指揮をとった南ベトナム攻略の詳細を明らかにした歴史的な文書だった。その記録はこのフォクロン省占領に必要性についても詳しく述べていた。
その戦略記録によると、同省占拠の目的の第一は新輸送路の開通だった。北側は和平協定の成立直後から第二のホーチミン・ルートともいうべき新しい補給路の建設を始めた。南ベトナム最北端のクアンチ省からラオス、カンボジア沿いにサイゴン北方のビンロン省ロクニンにある革命政府の行政中枢へと延びる一大戦略道路だった。
1974年12月ごろにはその道路が中部高原を下ってクアンドク省まで完成され、終着点のロクニンに届くにはその手前にあるフォクロン省を制圧することが不可欠となった、という事情だった。
第二の目的はさらに遠大だった。明らかに和平協定違反となる軍事攻撃を実行したことにアメリカがどう反応するかをみるという目的だった。ズン将軍の回顧録でも北ベトナム労働党のトップ、レ・ズアン第一書記までがアメリカ軍の再介入の可能性を心配していたことが記されている。
和平協定を南ベトナムに押しつけたニクソン大統領はチュー大統領に対して、北ベトナムが重大な協定違反の軍事行動をとれば、米軍が再介入して阻止することを秘密に約束していた。だがそのニクソン大統領は1974年8月にウォーターゲート事件により辞任していた。しかしその後任のジェラルド・フォード大統領がベトナム再介入という決断を下す可能性も完全には否定できなかった、ということだろう。
だがアメリカは動かなかった。
その結果、北ベトナムの労働党政治局は重大な戦略的決断を下した。フォクロン省制圧の2日後の1975年1月8日に1975年、76年の両年で南ベトナム制圧の大軍事作戦を展開するという歴史的な戦略だった。
ズン参謀総長の回顧録によれば、北軍は1975年には中部高原を中心とする各地での大規模な軍事攻勢を実施し、翌1976年にはその余勢をかって総攻撃と一斉蜂起を断行し、南ベトナム全土を解放する、という計画だった。
ただしその計画には、機会さえ訪れれば、予定を早めて1975年中にも南ベトナム全土の制圧に踏み切る、という註釈もつけられていた、という。
(つづく)
トップ写真:Photo by Bettmann/getty images