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.国際  投稿日:2025/9/8

ベトナム戦争からの半世紀 その35 サイゴン側の停戦への期待


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視」1006回

 

【まとめ】

 

・首都サイゴンでは、スアンロクでの敗北を受け、グエン・バン・チュー大統領への非難と辞任要求が高まった。

 

・北ベトナム側が「チュー大統領が辞任すれば交渉に応じる」と示唆したため、「辞任すれば停戦できる」という期待が広がった。

 

・筆者はチュー大統領の側近から、彼が敗北を認識しており、混乱を避けるために適切な時期を見て辞任を考えていることを知った。

 

 

 南ベトナム政府側ではスアンロクでの激戦で南軍が一時は勝利をおさめたことで士気をあげはしたが、すぐにまた切迫した危機意識に戻ることとなった。首都圏への東の関門とされたスアンロクが北ベトナム人民軍の大部隊に結局は席巻された事実は重かった。首都サイゴンではグエン・バン・チュー大統領への非難がまた燃えあがることとなる。そしてその非難はチュー大統領への辞任要求のエスカレートとなっていった。

 

 南ベトナム政界でのチュー非難は軍事情勢の変化とともに、その内容を変えてきた。当初は中部高原からの一方的な撤退から敗走への軍事的な失態をとにかく糾弾する動きが激しくなった。ところが北ベトナム軍の大攻勢が勢いを増し、北部から中部海岸までを制圧すると、南側では北側の軍事的優勢を認めて、なんとか停戦を実現させようとする期待が高まった。軍事対決をしても、まずこのままでは勝ち目がないだろうという見通しからの大幅譲歩でもあった。ところがその停戦の交渉はチュー大統領が南側のトップとして在任する限り、難しいということになったのだ。その点、4月はじめの時点では北ベトナム側は公式に以下の声明を出していた。

 

 「アメリカが南ベトナムへの援助と介入を止め、チュー政権が退陣して、その後にパリ和平協定を順守する新しい政権ができれば、その新政権との政治的交渉に応じる」

 

 文字通りに解釈すれば、チュー大統領がいなくなれば、停戦交渉、政治交渉に応じてもよい、という意味となる。サイゴンではこの点を受けて、別な意味からのチュー大統領の辞任を求める声が広がるようになったのだ。

 

 私は南ベトナムの政界やアメリカ大使館側でのこの種の反応を必死に探った。4月上旬の時点ではなお南ベトナムにとっての国家破滅という最悪の事態は避けられる道があるという見解がかなり多かった。スアンロクでの南軍の一時の勝利も影響していた。そうした見解には以下の多様な要素があった。

 

 「南ベトナム軍は大損害を受けたとはいえ、なお残存の兵力をサイゴン首都圏に集めて防衛すれば、北ベトナム側にとっても莫大な被害と犠牲を生み、主要都市を瓦礫にすることになるから交渉による妥協を求めるだろう」

 「北ベトナム側が宣伝してきた戦争の最終段階での『南ベトナム人民の総決起による革命側支援』は実際には起きておらず、軍事作戦を継続すれば、サイゴンの官民すべてを破壊することになるから、なんらかの政治合意を求める可能性もある」

 「北ベトナムが軍事攻勢に徹して、南ベトナムという国家全体を壊滅させれば、パリ和平協定での主張や誓約を完全に破ることになり、戦後の政治統治も難しくなる」

 「サイゴンへの総攻撃が長期となれば、その破壊や殺戮の非人道的な側面が国際的に反発を生み、国際機関や米欧のなんらかの介入を招くかもしれない」

 

 以上のような観測が南ベトナム側に広まったのだった。その種の観測は「停戦のためのグエン・バン・チュー大統領への辞任要求」という動きにまとまっていったのである。

 

 スアンロクの激戦でいったんは攻撃を止めた北ベトナム軍がさらに大増強して、新たなスアンロク包囲作戦に出始めた4月中旬にはサイゴン政界の空気はさらにチュー大統領辞任への期待を高めるようなった。「チュー大統領さえ辞めれば、軍事破滅は避けられる」という主張が強くなったのだ。

 

 私自身が徹底抗戦を叫び続けてきたチュー大統領自身に判断の変化があることを知ったのは4月19日だった。その日、旧知のチャン・ミン・トン上院議員と面談した。トン氏は本来は医師で、チュー政権の厚生大臣を数年、務めた。その後はチュー大統領を支持する与党の「民主党」の幹部となり、上院議員になっていた。私とは波長が合い、かなり親しく交流するようになっていた。そのトン氏が語った。

 

 「チュー大統領は現実にきわめて敏感な人物です。もう彼の公式発言を額面通りにだけ受け取っていてもだめです。彼が本来、持つプラグマティズム(実利主義)に注目しなければ、情勢を読み誤りますよ」

 

 上院内の議員室で私を愛想よく迎えてくれたトン上院議員はチュー大統領の最近の心境の微妙な変化を伝えるのだった。トン氏はチュー大統領を古くから知り、いまも接触する機会が多いのだという。さらにトン氏は現在のチュー大統領の思考について説明してくれた。

 

 戦争を継続してもこのままでは決定的な敗北が避けられないことも、軍部内で自分に対する不信が取り返しのつかないほど深くなったことも、チュー大統領はよく知っている。大統領の座にいつまでもしがみつく気はなく、やがては辞任するという覚悟をごく最近、固めるようになった。だがいま突然、辞めれば、軍事、政治の両面で大混乱を引き起こすだろう。だから軍事面ではもう少し劣勢を減らし、政治面では挙国一致の新体制が固まる見通しが立つのを待っている――トン議員の説明はそんな骨子だった。

 

 この情報は私にとっても重大だった。なにしろチュー大統領の側近、しかもいまも頻繁に顔をあわせている人物からの情報なのだ。だから私はその趣旨を踏まえて、「チュー大統領に軟化の兆し」というかなり長文の記事を東京へ送ったのだった。

 

(つづく)



トップ写真:ヘリコプターに向かって走るベトナム難民


出典:Photo by nik wheeler/Corbis via Getty Image




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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