無料会員募集中
.社会  投稿日:2026/10/7

「下駄」を履かせて欲しかったわけじゃない――90年代のスクリーンに抱いた希望と、東大総長選に残る疑問


執筆:中川真知子(ライター/インタビュアー)

中川真知子のシネマ進行

 

【本稿のポイント】

・東大の次期総長予定者に選ばれたのは、意向投票で1,107票(51.0%)を得た染谷隆夫氏ではなく、553票(25.5%)だった藤垣裕子氏である。

・意向投票の結果をそのまま選考結果に反映させないのは2014年の文部科学省通知に沿った扱いで、制度上の違反はない。

・それでも大差を覆した比較評価の根拠が示されなければ、「初の女性総長」という結果自体に不要な疑念が向く。

 

東大の次期総長予定者に選ばれたのは、教職員の意向投票で1位になった候補ではなく、票数が半分以下だった藤垣裕子氏だった。制度上、意向投票は選考資料の一つで、ルール違反はない。だが大差を覆した比較評価の根拠が示されないままでは、「初の女性総長」という結果にこそ不要な疑念が向く。ライター・インタビュアーの中川真知子氏が、90年代の映画に憧れた自身の体験と重ねて、選考の説明責任を問う。

 

 2026年9月28日、東京大学の次期総長選考において異例の事態が起きた。

 午前の教職員による意向投票(第2回投票)では、工学系研究科の染谷隆夫副学長が1,107票、得票率51.0%と投票者の過半数の支持を獲得して1位となった。2位の藤垣裕子教授(総合文化研究科)は553票(25.5%)にとどまり、その差はダブルスコア以上。意向投票では、染谷氏への支持が他候補を大きく上回る結果となった。

ところが同日、学外有識者を含む「総長選考・監察会議」が下した結論は、その結果とは異なるものだった。次期総長予定者に選出されたのは、2位の藤垣教授。1877年の創立以来、初となる女性総長の誕生となる。

意向投票で過半数の票を集めた候補者が選ばれず、2位の候補がトップに据えられる――この大きな逆転に、学内外から疑問や戸惑いの声が上がった。

■そもそも、なぜ2位が選ばれるようになったのか

 なぜ、意向投票で過半数を集めた候補ではなく、2位の候補が選ばれる事態が起こり得るのか。背景には、2004年の国立大学法人化以降に進められたガバナンス改革がある。

かつての国立大学では、教員による意向投票が学長選考に大きな影響力を持っていた。しかし2004年の法人化によって、学外委員を含む学長選考会議が学長を選考する制度となった。さらに2014年の法改正を受け、文部科学省は、教職員による意向投票を実施する場合でも、その結果をそのまま学長選考会議の結果に反映させることは適切ではないとの考え方を明確にした。

そのため現在、意向投票は最終決定そのものではない。最終的な決定権を持つのは、学外有識者を含む選考会議だ。

選考会議の論理としては、意向投票は選考資料の一つに過ぎず、資料・所信表明・面接などを総合的に判断して最適なリーダーを選んだ、ということになる。ルール上、制度的な違反はない。

しかし、2020年の前回選考でも、第2次候補者の選定過程などをめぐって公平性や透明性に疑問が呈され、教員有志らから要望書や質問状が提出された。東大はその後、外部の弁護士らによる検証委員会を設置している。

現場の納得感と選考会議の判断との間に生じる乖離をどう埋めるのか。その問題は、以前から残されていた。

■「女性初」という看板に覚える違和感

 制度上の説明がどうあれ、この一連の決定には大きな疑問が残る。

総長選考・監察会議は、藤垣氏が女性であることは選考過程で議論の対象にはならなかったと説明している。ならばなおさら、なぜ意向投票でこれほど大きな差がついた候補ではなく藤垣氏だったのか、その比較評価について、もっと具体的な説明が必要だったのではないだろうか。

もちろん、意向投票だけで総長を決める制度ではない。票数だけでは測れない資質があり、面接や所信表明などを通して初めて見えるものもあるだろう。

しかし、公表された説明からは、1,107票対553票という大差がついた候補者間で、なぜ藤垣氏をより高く評価したのか、その比較の根拠までは見えてこない。

筆者がここで気になるのは、その説明不足が「初の女性総長」という結果と結びついたときに生まれる疑念だ。

優れた能力や実績を持つ女性が、「女性だから」という理由だけで過小評価されたり、不当に機会を奪われたりするような社会の理不尽は、断じて是正されなければならない。

しかし筆者が求めているのは、性別を理由にした忖度や優遇ではない。あくまで「個人の能力と実績に基づいた正当な評価」そのものだ。

だからこそ、意向投票の結果を大きく覆すのであれば、誰もが納得できるだけの客観的で十分な説明が必要だったと思う。

それがなければ、「初の女性総長を誕生させるために下駄を履かせたのではないか」という、本来なら生じる必要のない疑念まで招いてしまう。

そして何より残酷なのは、そうした疑念が、選ばれた藤垣氏自身に向けられてしまうことだ。

たとえどれほど優れた能力やビジョンを持っていたとしても、「実力ではなく、女性だから選ばれたのではないか」という色眼鏡で見られる可能性が生まれる。

それは新総長にとっても、現場で真摯に研究や教育に向き合っている女性研究者全体にとっても、いや、実力で対等に競い合おうとする全ての女性にとっても、余計な疑念の目を向けさせることにしかならない。「自分は下駄を履かせてもらっていない」と証明するために、本来不要な二重の負担を背負わされる。

どちらに転んでも、これは真の女性進出や男女平等にとって望ましい結果とは言えない。

■90年代のスクリーンが教えてくれた「知性で戦う」矜持

 90年代に思春期を過ごした筆者自身の記憶に照らし合わせても、今回の違和感は根深く響く。

当時はまだ「女のくせに」「女の分際で」という言葉が平然と浴びせられる時代だった。自立を望む母の考えと、旧来の女性らしさを求める父の価値観の狭間で、女性としての生き方に激しい揺らぎを覚えたこともあった。

身体的な筋力や腕力では男性にかなわない。旧態依然とした社会の壁も厚い。ならば、自分は何ができるのか。なんだったら対等に渡り合えるのか。

その答えを示してくれたのが、当時のアメリカ映画に登場したヒロインたちだった。

『レリック』(1997)で、怪物を前にコンピューターを駆使したDNA解析で、その正体を突き止めた進化生物学者のマーゴ。『ザ・インターネット』(1995)でキーボード一台を武器に謎の組織による陰謀に立ち向かったアンジェラ。『コピーキャット』の犯罪心理学者ヘレンや、『ミミック』の昆虫学者スーザン。

少なくとも筆者の目には、彼女たちは女性であることを理由に庇護される存在には映らなかった。特別扱いなど必要としていなかった。肉体の制約などテクノロジーと知性で凌駕できること、己の専門性を磨き上げれば男性とも同じ土俵で対等に戦えることを、彼女たちはスクリーンの中で証明していた。

コンピューターと頭脳、そして行動力で男性と肩を並べ、時に男性を従えて問題解決に挑むその姿に、筆者は強い憧れを抱いた。そこには、身体的な差や、妊娠・出産に伴うキャリアの空白、ステレオタイプの押し付けすら跳ね除けるだけの強さが描かれていたからだ。

誰かが差し出してくれる都合のいい下駄ではなく、ただ一人の人間として、自分の頭脳と実力で挑み、正当に評価される。

スクリーン上の女性たちはまさに筆者にとってのロールモデルであり、STEAM教育という言葉が広く使われるようになる以前から、「テクノロジー分野に秀でることこそが独立した女性への確かな道だ」と確信させてくれる存在だった。

■置き去りにされた1票と、知性の府の選択

 だからこそ、今回の東大総長選の結末には、深いやりきれなさと複雑な思いを抱かずにはいられない。

現場で研究や教育に携わる教職員が、大学の将来を考えて投じた票が結果として大きく反映されなかったプロセスには、やはり疑問が残る。意向投票が総長を直接選ぶ選挙ではないことは理解している。それでも、これほど大きな乖離が生じたのであれば、その理由を十分に共有しなければ、現場の納得感を得ることは難しく、制度への信頼を損ねることにもつながりかねない。

大学という場は本来、多様な議論を積み重ね、透明性のある合意形成を重んじる最高峰の知性の府であるはずだ。だからこそ、意向投票と最終結果との間に生じた大きな乖離に対して、より丁寧で客観的な対話と説明が尽くされるべきだったのではないだろうか。

筆者が願っているのは、過剰な配慮や属性による優遇でも、形式的な看板作りのための特等席でもない。ただ性別を問わず誰もがフェアな土俵に立ち、積み上げてきた実力と成果によって公正に評価される環境だ。

今回の選考で本当に問われるべきなのは、女性総長が誕生することそのものではない。なぜこの人物を選んだのか。その理由を、意向投票で別の候補に票を投じた人たちにも納得できる形で説明できたのか、だ。

その手続きへの納得感が曖昧なまま「初の女性総長」という結果だけが先行してしまうのだとすれば、それは現場の教職員にとっても、選ばれたリーダー自身にとっても、そして性別ではなく自分自身の実力で評価されたいと願う女性たちにとっても、決して望ましい形とは言えない。

女性だからでも、男性だからでもない。ただ一人の人間として、積み上げてきた実力で評価されてほしい。90年代のスクリーンに登場した女性たちを見ながら、筆者が憧れたのは、そんな世界だった。

今回の選考を見ていると、その当たり前のことが、実はまだ当たり前ではないのだと思わされる。

 

■ソース

東京大学「次期総長予定者 選考結果、選考理由及び選考過程」
 https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400297158.pdf

東大新聞オンライン「藤垣裕子・次期総長予定者 会見文字起こし」
 https://news.todaishimbun.org/media_20261001/

文部科学省「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正する法律及び学校教育法施行規則及び国立大学法人法施行規則の一部を改正する省令について(通知)」
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/__icsFiles/afieldfile/2014/09/10/1351814_7.pdf

東京大学 総長選考・監察会議(第5回)配布資料
 https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400270156.pdf

 

【よくある質問(FAQ)】

Q1. 東大の総長選考は、どんな手続きで進むのか?

  1. 令和8年度の選考では、7月初旬に第1次総長候補者を決定し、8月19日ごろに第2次候補者を告示、9月28日に意向投票を行い、同日の総長選考・監察会議で総長予定者を決めた。会議は同日13時開始だった(東京大学「総長選考(令和8年度実施)」、総長選考・監察会議(第12回)議事次第)。

Q2. 意向投票の結果は、全体ではどうだったのか?

  1. 第2回投票は染谷隆夫氏1,107票、藤垣裕子氏553票、山本隆司氏451票、白票58票の計2,169票。有権者は2,583人で、第1回投票の投票者数は2,155人(83.4%)だった(東京大学「次期総長予定者 選考結果、選考理由及び選考過程」)。

Q3. 「総長選考・監察会議」とは、どんな組織で誰が議長なのか?

  1. 学外有識者を含む会議で、議長はジャーナリストの国谷裕子氏、議長代理は浦野泰照氏と関根千津氏。9月29日の会見で国谷議長が選考理由を説明した(東京大学「次期総長予定者の藤垣裕子教授が会見」)。

 

(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)

写真)安田講堂

出典)jaimax  / GettyImages




copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."