[為末大]「遊ぶ人ほど仕事できる」の真意は「楽しい遊びを提案できる能力は仕事につながる」〜楽しくなる為の5つの条件
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
◆楽しむ能力◆
世の中には楽しい事、楽しくない事はある程度あるけれど、一方で「楽しむ能力」というのもあるように思う。「楽しくない」「面白い事がない」といつも言っている人は、むしろ自分の側の問題で楽しめてない事が多い。娯楽はもう世に溢れている。
楽しめない人を見ていると、「今、目の前にあるものがどうなるか」が自分の手に委ねられているという感覚が薄い。待ちの姿勢。楽しい事がどこかにないか探しているし、世の中に無い事を嘆く。自分で面白いものを作る、面白くするという発想は無い。
楽しむ人を見ていると、参加意識、提案意識が高い。「どうすれば楽しくなるか」を考える癖がついている。「遊ぶ人ほど仕事できる」の真意は、「楽しい遊びを提案できる能力は仕事につながる」という事だろうか。遊びを提案する人は、確かにいつも同じ人だ。
僕はコーチがいなかったから自分で練習を考えていた。同じ20本走る練習でも、ポイントをつけたり、ペースに制限を設けたりすると、途端に面白くなる。自分を楽しませてやらないと陸上の練習は辛すぎる。ルールと勝利条件次第で、面白さは随分変わる。
楽しくなる為の条件を昔考えた事があった。
- ルールがある
- 失敗と成功の条件がある
- サプライズがある
- 工夫する余地がある
- 夢中がある
僕は、そっくりそのまま「引退後の人生」に当てはめて考えている。
“一回飲み会セッティングさせてみれば大体能力はわかるよ”と豪語している人がいたけれど、確かにそういう所はあるなと思う。「待ちの人」かどうかがわかる。
◆誇りというもの◆
クロアチアのドブロブニクで取材をした。
国境近くで住む人々に話を聞いていて、クロアチア側、ボスニア側のセルビア人の方達といろんな話をしてきた。それぞれに歴史に、そして“我々”というものに「誇り」を持っている。
その「誇り」が彼らを他とは違う存在にして際立たせている。“我々”と彼らが口にする時、それはセルビア人だったり、クロアチア人だったり、またはドブロブニクに住む人だったりするけれど、各“我々”に、それぞれ「誇り」がある。
“我々”と呼ぶ時、当然、“我々ではないもの”が必要になる。「誇り」は“違い”に宿る。他者と違おうとする時点で、対象物が必要になる。無人島では自分が背が高いのか、他者と違うのかどうかすらわからない。「誇り」はいつも相手を探している。
幼児が不思議そうに目の前で動く自分の手を眺めている。まだ自分が自分なのだという事がわからない。ある日、ふと自分は外界ではなく、自分なんだと気づく。自我の芽生え。同時に自分を説明付ける為の苦労が始まる。観察者としての自分が生まれる。
私を「確かだ」と感じる為に、生み出された様々なものが、「誇り」を生み、「違い」を生み、そして「対立」を生む。「自分は確かなんだ」と強く思えば思うほど、受け入れられないものもまた出てくる。認めてしまえば自分が自分であるという根拠が消えてしまいそうで、怖い。
「誇り」を大切にして生きている彼らがとても魅力的な一方で、「誇り」がぶつかり、抜き差しならなくもなってしまう。簡単に多様性、他者を認めるというけれど、自我がこれだけ育った社会にはとても難しい課題だと思った。
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