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.経済  投稿日:2017/5/13

日本解凍法案大綱 18章 社外取締役とオーナー会長


牛島信(弁護士)

みなこの店は、ドアを入った正面がすべて大きなガラス窓になっている。床下にまで達している窓の外は暗く、はるか下に道路が見え、その向こうに高速道路があって電車の線路が並行して走る。そのまた向こうには新幹線の線路だ。何本もの鉄やコンクリートの道が、順々に大きな窓一杯に拡がっているのだ。

外の暗闇をみつめていると、高野はふっと足先から窓の外に吸いだされてしまいそうな目まいを感じた。高野が手にしたトカイのグラスからは甘い香りが立ちのぼり、周りの風景ぐるみ、なにもかもがぼんやりと溶けだしてきて、気の遠くなるようなけだるい感覚が体を浸していた。

この「みな」という名の店は、銀座8丁目のコリドー街に面したビルの最上階という特権をフルに生かした立地が自慢だった。客は夜にしか来ないから、誰もが高野と同じように窓の外の漆黒の世界とそれを切り取る何本もの線路や道路に引きつけられる。40歳を過ぎて、清田みなこはそれまでのクラブ勤めのときからの夢、自分のお店を持つという長い間の夢を実現したのだ。みなこの店だからみなと名付けた。みなこは誰からもみなちゃんと呼ばれている。

「公庫だけど、随分な額の借金しちゃったのよ」

初対面の高野に、みなこはあけすけに話して聞かせる。

「高野さん、みなちゃん本当によくやってるんですよ。だからお客様がみなさんで可愛がってくださって。ここ、もう5年になるんです」

横から柴乃が言葉を添えた。

カウンターの右隣に座った高野に体を少しひねるようにして顔を向けている。

「ウチの会社もやっと順調に滑り出しました。 それもこれも高野さんのおかげです」

そう言って、柴乃は黒い御影石のカウンターに両手の指をそろえるとていねいに高野に向かって頭を下げた。濃い赤の、胸ぐりの大きなフェラガモのワンピースが揺れる。胸元がのぞいた。大きな乳房の形がわかる。

「どうかこれからもお見捨てなく、よろしくお願いいたします。 悪いところがあったら、なんでもおっしゃってくださいね」

そういう柴乃に高野は姿勢を正すと、

「はい。礼儀はわきまえるつもりですが、遠慮はしません。私は社外取締役ですからね。独立した立場で少数株主のために会社を監視しているのですから。非上場会社の社外取締役の大事な実験です」

柴乃がうっとりをした目つきで、たったいま言葉の吐き出された高野の口元を見つめる。少し酔っている様子だった。

「それにしても、先ほどは私がナイフでレタスを切っているところを熱心にご覧になっていらっしゃいましたが、なにか理由でもあるんですか。珍しくもない光景でしょうに」

高野がたずねると、柴乃は待っていたように、

「失礼しました。 私、あのお店、三津田作次郎に初めて連れて行ってもらったんです。

そのとき、作次郎がナイフを真横に一文字に横に動かしてレタスを切るのを見ました。なんて格好いいのかしら、と思いました。高野さんが同じ場所で同じことをされたので、ついつい見とれてしまって」

「レタス、ですか」

「はい。日本人はレタスをナイフで切って食べませんし、そもそもお皿の上でナイフを左右に動かす人は珍しいですよ」

「へえ、そうですか」

「ええ、みんな縦、つまり前後に動かします。

高野さん、あのとき、或る人との思い出なんておっしゃいましたね。どんな方ですの?おたずねしてはいけない方ですか?」

高野は、こいつは危ないなと感じた。

(俺は、この女性が40年以上前に出逢った一大事件の登場人物に見立てられているらしい。

俺は大丈夫だろうか?この、人生が唐突にパックリと口を開けた薄ぼんやりとした落とし穴を無事通り抜けられるだろうか?

人にとって危機というのはいつもこんな風に始まるのだろう。まさか68歳になって妻以外の女性と新しい関係に入るとは思ってもみなかった)

高野は、今の妻である英子と結婚して以来、絶えて浮気らしいことをしたことがなかった。結婚できないかもしれないのに高野に人生を賭けてくれた英子を裏切る気にはなれなかったのだ。いや、多少はそういうこともあったかもしれないが、少なくとも最近では面倒臭くなってしまったというところだった。自ら求めなければ、つまずくことはない。

だが、自分でも愕然とすることがある。うかうかと残りの人生の時が消え去るままにしてしまって、死の床に伏して急に後悔に取りつかれてしまうのではないか。あげくに絶望しながら死ぬことになるのではないか。そう思うことがあるのだ。焦る。だが、それ以上にはならない。焦燥感はブスブスと音を立てているうちに、消えてしまう。

(どうやら今俺の心のなかで、なにかしらの生命の炎が小さく燃え始めてしまったようだ。性だろうか。いや、なにかもっと広い、生命そのものの根源のような気がする。この歳になって、こんな感覚が戻ってくるとは。

男というのは、どうにもしかたのない生き物のようだな。

それにしても、これは据え膳ということになるのか。どうしてこの女性、大津柴乃と言う女性は俺に対してこれほど積極的なのか。何を求めているのか。63歳の、何十年も連れ添った夫に裏切られた女性。いや、それは俺が知っている部分であって、その他にこの女性がどんな人生を送ってきたか、俺の知っていることはほとんどない。たとえば夫以外の男性と関係することがあったのかどうか。あったとすれば一度ではなかったのか。なにもなければ目の前のこの女性の態度はありそうにない気がする。

分からない。どんな膳が出ても迷わずにすぐに食らいつく歳ではとっくになくなっている。

とにかく、今日は大丈夫だ。もうしたたか飲んだから安全だ。いくら心がはやっても体がついていかない。この状態の体では性行為はあり得ない)

そう言い聞かせている傍から、

(しかし、キスはあり得るだろう。

もしキスすれば、次を約束することになる。

その次は、68歳の男と63歳の女性なのだ。なにもしないで終わらなくても不思議はない。

なにかを言い出すとすれば、それは男のやるべきことだろう。男の責任だ。恋の恥のリスクは常に男が取るべきもの。

しかし、俺はいまさら恋などが欲しいと思っているのか。そいつは、いま手の中にある静かで平和な生活を振り捨ててまで味わわずにおれないほど狂おしいなにかなのか?)

高野はあらためて目の前の柴乃を見つめた。

「いやっ、そんなにみちゃ」

思いがけず、柴乃が小さく叫んだ。

(あ、少女のコケットリーがここにある。この女性はそうした自分を意識しているのかいないのか。いずれにしても63歳の女の心は15歳のままなのだ)

高野は、柴乃が暑気払いと言いだし、その後でこの店に誘ったことを思い返していた。お話があると言っていたのだった。

「これは失礼。人は、目の前にある美しいものは見つめないではいられないものです。

おや、酔ったかな。

どころで、お話というのはなんでしょう?

酔っぱらってしまう前にうかがわないと、せっかくうかがっても明日は忘れてしまっています」

(また言ってしまった。どうしてこんなことを言うのか、言わずにおれないのか。

英子のときもそうだった。これを言って、それで始まったのだった。その後にも似たようなことを別の女たちに次から次へ投げかけたのではなかったか。

どれも地獄の日々につながった。身を投げて飛び込むことはたやすい。しかし、そこから這い出すことはこの身を切り裂くように辛い。性分なのか。情が厚いのか。なんにしても、それでもなんとか無事な姿で現在にたどり着いている。

大木なら人生の無駄と憫笑を漏らすことだろう。

そうしたことの連続で、俺はなにを望んでいるのか?

せっかく静謐で暖かい、すべてが滑らかに流れている家庭生活というものがあるのに、なにを好きこのんで)

「高野さん、会社、どうしたらいいんでしょうか? いえ、少数株主たちのことなんです」

柴乃の声に、独りの世界を漂い始めていた高野の思考が元の世界へ引き戻された。

「お持ちの株を買って差し上げるのがいいのでしょうか?配当を上げて差しあげるのがいいのでしょうか?

私にはわからないのです。

つい最近まで、私はあの会社は私のものだと思っていました。創業者の三津田作次郎が私にくれたのです。私が出戻りになって会社に復帰して間もないころのことでした。

三津田作次郎が、オマエに会社をやる、と言ってくれて。向島運輸の株主になる資産管理会社を作って、その会社の株を私にくれました。『大切にするんだぞ』って」

「ほう、そんなことがあったんですか」

高野はやっと柴乃が100億の資産を誇る会社のオーナーになったわけがわかった気がした。前社長の子どもである梶田健助がまるで使用人のようで、その妻に過ぎないはずの紫乃がオーナー然としていることの謎が解けたような気がしたのだ。

それにしても、三津田作次郎という創業者は、子どもがいないとはいいながらもレッキとした妻がありながら、どうして赤の他人の柴乃に会社を譲るようなことをしたのか。

高野は、梶田夫妻が結婚したのは創業者の意向だったという話を思い出していた。そういうことだったのか、といまさらながら腑に落ちる気がする。

男は女のために金を稼ぐのだ。いずれ男は年老いる。すると若い女に金で報いてやることしかできなくなってしまう。

(少なくとも、バイアグラという魔法ができるまでは)

高野は胸のポケットにそっと触れてみた。四六時中携帯している。使うわけではない。同じ歳の友人が『俺たち老人世界の新入生にとって、なによりのお守りだよ』と妙な説明をしながら1錠分を切り取ってくれたのだ。「若さとは性の力だろう。そいつを保証してくれる。たとえ一時の錯覚でもな」

以来、肌身離さず身につけている。

高野はみなこの姿を目の端で捉えたまま、柴乃に向かって、

「支配するには充分の割合の株だが、だからといって残りの少数の株主に報いないでは済まないと思っていらっしゃるんですね。

そのとおりですよ。

全国の同族会社では、少数株しか持っていない株主はないがしろにされ過ぎているのです。配当も自己株の取得も、言い出すことすらできない。言い出したところで少数株主の言い分が通るなんてことはあり得ない。法律が悪い。変えないといけない。

少数株を持っていたばかりに、相続でひどい目に遭った例すらあります」

すこし勢い込むようにして、高野は大木に聞いた大日本除虫菊の話を柴乃のために繰り返してやった。

「不条理です。

生きている間に自分の少数株を売ってしまうしかない。でも、誰が買ってくれるでしょうか?」

「少数株を持っている方は、誰も文句なんておっしゃりません」

柴乃がささやくように言った。聞こえない。高野は耳を柴乃の口元に近づけた。

「それなのに、私のほうからなにかしなくてはいけないのでしょうか?」

熱い吐息が紫乃の口から洩れ、高野の耳朶にまとわりつく。

「ああ、そのことですか。

本当は、少数株主の方から会社への買取り請求ができるという法律になっていないのがおかしいのです。

私は大木弁護士とよくその話をします。

配当で満足している株主はそれでいい。でも、将来の相続をみすえると、それで済まないような会社もあります。中身に価値がある会社の株主には救済措置が必要です。

取締役は株主にフェアに報いなくては」

「それが取締役の善管注意義務?」

「そう。独立した社外取締役である私はそう思います。でも、私が会社の経営をするわけではありません。経営は執行側が考えることです。執行側を選ぶのはオーナー株主です。つまり、あなただ」

「そんなこと。

私、少数株主さんに悪いことなんてしてません」

「そう。そのとおり。問題は法律と習慣で、個々の取締役ではないかもしれない。でも、オーナー取締役にはそいつを防止することができる」

「身を切られるよう」

(「17章 高野、社外取締役に」の続き。19章に続く。最初からお読みになりたい方はこちら


この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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