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.社会  投稿日:2014/2/25

[為末大]「元の木阿弥」という救い〜「何もない自分でもいいじゃないか」と思えることの重要性


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

執筆記事プロフィールWebste

 

木阿弥という盲人の僧がいた。

筒井順昭という殿様が病になり命が危うくなった際、自分の死を知られては敵に攻め込まれる恐れがあるとして、跡継ぎの順慶が大きくなるまでの三年、死を公表するなと命令した。順昭は自分に良く似ている木阿弥を影武者に仕立てた。部下達は見事にそれを守り、三年後、死が公表されると、木阿弥は元の僧に戻ったという。

手に入れたものが結局、何も無くなるというあまりよくない意味で、この「元の木阿弥」という言葉は使われる。競技人生を送っていくと、この心境に陥る時がある。せっかく手に入れた名声を失いたくない。手に入るはずのメダルを失いたくない。

スランプ等で苦しかったり、プレッシャーに負けそうになる時、実は私にとってはこれが救いになった。「よく考えてみれば広島の一般家庭の倅じゃないか」、「十分いい夢見たんだからだめだったら元に戻ればいい」と。だからとりあえず行ける所まで行ってみよう。

世の中はパラドクシカルな状況が多い。人に愛されようとしておらず、そのままの自分でいる人の方が愛されたりする。手に入れようと必死な人より、気軽に手を伸ばした人の方が手に入れてしまう事がある。役に立とうと頑張る人より、好き勝手やっている人の方が役に立つ事がある。

「元の木阿弥」を受け入れる事の一番の難しさは、「何もない自分でもいいじゃないか」と思う事。立派でなければならない、認められてなければならないという心理が強い人は、「元の木阿弥」になる事を恐れ、守りに入り、守る人は動きが固くなる。

一番ハマるパターンは、何もない自分はおろか、「こうなりたい自分」や「こうなるべきだ」という思い込みが強すぎてそれから微塵たりともズレてはならないと思う人。こういう人が「なりたい自分」からズレてしまった時、自分を責めながら崩れていった。

 

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