道徳的な人は「道徳的な考え」をするのではなくて「道徳的な行動」をする人である
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
初めてディベートをやったとき、一番面白かったのは、自分の意見に関わらず強制的に立場を決められるという事。例えば原発反対の人が、原発推進派にまわらされたり、核武装反対の方が、核兵器保有を擁護させられたりする。
実際に仮の立場に立つと見えてくるものがある。一生懸命相手の隙間をつこうとするので、なるほどこういう風に相手からは見えているのかや、また自分が考えていたロジックのほころびも見えてくる。ディベートが強い人はどの立場で強いらしい。
この仮の立場に立つという練習が実は日本では少ないのではないかと思う。例えば本当に原発はよくないのか考えてみませんかというと、すぐ推進派に割り振られてしまう。一旦落ち着いて反対から考えてみましょう、が許されない。
僕はこれを邪魔しているのが、自分の意見と自分は一体であり、また常に正しい答えを求められる道徳的な教えられ方から来ているのではないかと思っている。例えば道徳的でない仮の状況にとりあえず立ってみる事ができない。受け入れられない。
ある種、議論は娯楽のような所があって、仮の設定でどんな事ができ得るかを考える思考パズルのようなものだと思う。記者会見でどう切り抜けるか。三億円を持ってどう逃げ切るか。考えまで道徳的な人は、不道徳な人を相手にしたとき勝てない。相手の理屈がわからないから手が打てない。
僕は着想が面白い人は、考えている瞬間に善悪が無いと思っている。だからタガを外して考えられる。道徳的な人は、道徳的な考えをするのではなくて、道徳的な行動をする人なんだと私は思う。
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