[為末大]<代表するという事>社会をよくするために私達はどの程度「代表者」に責任を負わせるべきか?
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
高校生の頃、クラスで行う発表のリーダーを決めていて誰もやりたがらなかったので、手を挙げて僕がやる事にした。みんなをやる気にさせたりするのがとても大変で、おまけに「自分でやりたいって言ったんだからちゃんとやれよ」と言われた。
例えば、けん玉が好きで一生懸命やっていた少年がいつの間にか代表に選ばれ他国と戦うとする。本人が嫌がろうともある一定以上行くと、他者の期待が入り、世の中にあの人は代表だという意識が生まれ、その人は代表としての責任を負う事になる。
一方でノブレスオブリージュのような考えもある。ある一定の成功を収めたり、代表するという事は、本人の努力のみならず生来の資質、環境が大きいのではないか。そう考えると代表者はある一定の責任を負うべきと考える事にも整合性があるのではないか。
代表者に負わせる責任が重すぎれば、人はそれを敬遠しがちになる。リーダー不在と時々日本社会は言われるけれど、小中高大までで、何人の人がどの程度リーダーになった経験があるだろうか。そもそもそれを選ばない方が利得が大きい空気ではないだろうか。
手を挙げた人をまず応援する社会と、手を挙げた以上、何かあったら責任はしっかり取ってもらうぞという社会。表裏は一体なのだろうけれど、後者が強ければ手は挙げない方が利得は大きい。言わない、動かない、変えない方が安全。
代表者が自分勝手に振る舞いすぎても社会に不公平感が広がるように思う。社会をよくしていく為に、私達はどの程度代表者に責任を負わせるべきだろうか。子供達は敏感で、今の空気を見て自分の将来の振る舞いを決めている。
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