[宮本雅史]【日本人の原点に立ち返る年】~パラオの人に教えられたこと~
宮本雅史(産経新聞社編集委員)
「宮本雅史の親日保守を考える」
|執筆記事
昨年十二月初旬、パラオ共和国にお邪魔した。今年、大東亜戦争が終結して七十年を迎えるにあたり、戦力面で想像をはるかに超えるハンディを背負いながらも、米軍を苦しめたペリリュー島守備部隊の足跡をたどるのが目的だった。
昭和十九年九月十五日から十一月二十七日までの七十四日間にわたり繰り広げられた日本軍守備隊と米軍との戦闘は、日本軍九千八百三十八人に対して米軍は約四倍の四万二千人で始まり、守備部隊は大小五百を超える洞窟などを拠点に組織的に戦ったが、最終的には一万二十二人の戦死者と四四六人の戦傷者を出して玉砕。一方、米軍も千六百八十四人の戦死者と七千百六十人の戦傷者を出した。
わずか約十三平方㌔の小さな島は、草木は焼け白い岩の塊と化してしまったと、島民たちが口をそろえるほど激しい戦闘だった。だが、島民には死傷者は一人もでていない。守備部隊が非戦闘員である島民全員を強制疎開させたからだ。
生還者の元軍曹は「日本兵として、日本人としての誇りがあったから、過酷な環境の中でも戦えた」と話したが、島民保護も、非戦闘員を戦火に巻き込まないという日本軍人の誇りの表れだったと感じる。多くの島民との話を通し、日本軍将兵が日本人としての誇りをかけて戦闘に臨んでいたことを知り、私自身、日本人であることに改めて誇りを感じた。
一方、目線を変えてパラオの歴史と日本人感を見ると、日本人であることの喜びと同時に恥ずかしさを感じる。
一九一四年、第一次世界大戦でコロール島を占領した日本は一九二〇のパリ講和会議でパラオを委任統治下に置き、一九四五年の敗戦まで、小学校や公学校、病院、郵便局などを設置したほか、道路や港湾、飛行場の建設などインフラ整備も進めた。当時、コロール島の中心街は第二の東京と呼ばれるほど栄え、日本人の人口も、一九二三年には六百五十七人だったのが、一九三八年には一万五千六百六十九人を数え、パラオの総人口の七割を占めた。
日本政府が特に力を入れたのがパラオ人に対する日本語教育だった。六ケ所の公学校で日本語を中心に日本の文化を教えた。当時の教育を受けた島民は、日本語が堪能だ。今でも、「君が代」はもちろん「海ゆかば」や「仰げば尊し」「蛍の光」をはじめ「桃太郎」などの童謡も口ずさむ。全員、歌詞の意味は理解しているという。
八十三歳の女性は「公学校では『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『おはよう、こんにちは、おやすみなさいーと言いなさい』『家の事を手伝いなさい』『有難うと言いなさい』『困っている人がいたら手伝いなさい』…と教えられた。私は先生から教わったことはすべて子供たちに伝えてきました。子供には、自分の子供ができたなら、同じように伝えなさいと、言い聞かせています」と日本語で話した。
ある老女は、島が戦火に巻き込まれたことに「なぜ?」と憤りを見せたが、すぐに笑顔で「今では何とも思っていない。むしろ、日本からは多くの事を学んだ。日本には特別な思いがある」と話した。
元パラオ共和国政府顧問のイナボ・イナボさん(故人)は、雑誌のインタビューに「日本には天皇陛下と靖国神社と富士山、桜の花という四つの大切なものがある」「日本人から、勉強、行儀、修身、男であることを教えられた」と述べている。そして彼はこうも言っている。「日本では総理大臣が靖国神社にお参りすることを反対していると聞いた。とても悲しい。何で自分の国のために短い人生を、命を捧げた人たちを大事にしないのですか」と。
現政権は、今年も経済活性化を最重要課題としており、昭和期のバブルの再来を夢見させるような景気のいい言動が多い。経済活性化は重要な命題だ。だが、同時に我が国の伝統的価値観を守ることも決して忘れてはいけない。
安倍総理がかつて口にした「美しい日本」。敗戦後、七十年の間に日本人の間で希薄になってしまったものを、パラオの人たちに教えられた。戦後七十年を迎える今年は、憲法問題に教育問題…と、山積する問題に向き合い、性根を据えて日本人の原点に立ち返る年である。
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