微笑みの国で贖罪と慰霊 クワイ河に虹をかけた男
大塚智彦(Pan Asia News 記者)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
8月27日から9月16日まで東京都中野区の「ポレポレ東中野」でドキュメンタリー映画「クワイ河に虹をかけた男」が上映されている。舞台がタイのカンチャナブリということで懐かしさもあり、駆け付けて約2時間スクリーンに見入った。
このドキュメンタリー映画は瀬戸内放送の満田康弘記者が監督となって太平洋戦争中、日本陸軍通訳としてタイで鉄道建設の拠点となったカンチャナブリの憲兵分隊に勤務した岡山県倉敷市在住の永瀬隆氏を1994年から約20年、カメラで丹念に追い続けた記録である。
映画「戦場にかける橋」(1957年)「レイルウェイ運命の旅路」(2013年)などで知られるカンチャナブリには、当時タイ・バンコクからビルマ・タンピュザヤまでを結んでいた泰緬鉄道のシンボルでもあるクワイ河鉄橋が残されており、現在は観光地としてにぎわっている。
1942年7月からわずか1年3カ月で総延長415キロの鉄道を開通させた突貫工事には、イギリス、オーストラリア、オランダなど連合軍の捕虜約6万人、インドネシアやマレーシアなどから動員された東南アジア人労働者約25万人が従事。食糧、医薬品が極端に欠乏する中、炎暑、伝染病蔓延という過酷・悲惨な環境に置かれた結果、捕虜約1万3000人、労働者数万人が命を落とし、「死の鉄道」とも呼ばれた。
■生涯かけた「贖罪、慰霊」を決意
終戦間もない1945年9月、鉄道建設で死亡し、沿線に仮埋葬されていた犠牲者を捜索する連合軍の「墓地捜索隊」に当時を知る日本人通訳として同行したことが永瀬氏を「生涯かけた犠牲者の慰霊」へと突き動かす。
「線路に沿って墓地を捜索した時に終わりごろになって、あまりにも日本軍のやっていることがひどいので、このままにしておくことはできないと思って自分はジャングルの中に立って『必ずここに来ます』と自分自身に約束しました。慰霊をして無残に死んだ人たちを慰めなきゃならないと思いましたからね」(永瀬氏の言葉)。
その後復員、海外渡航の自由化を待って1964年のタイ初渡航以来、永瀬氏は2011年に亡くなるまで実に135回もタイを訪問した。私財をなげうっての度重なる慰霊訪問、それは巡礼の旅でもあった。
妻佳子さんと二人三脚でのタイ巡礼を通じて永瀬氏は、犠牲となった連合国軍の捕虜、アジア人労働者の慰霊とともに生存する捕虜との和解、インドネシア人やマレーシア人で戦後帰国できなかった労働者の支援、帰郷援助などを続けた。
さらにタイ人留学生の受け入れ、「クワイ河平和基金」設立によるタイ人子女への奨学金贈呈、進学支援などを死ぬまで継続した。これは終戦後にビルマ戦線などからタイに帰還して武装解除、復員を待っていた約12万人の日本軍兵士に「飯盒1杯の米と中蓋1杯のザラメ砂糖」を連合国側に内密で配給してくれたというタイ政府、タイ国民への「恩返し」だという。
「自分の国をほとんど占領同様に来た兵隊たちが敗れて帰る時にその兵隊たちが腹がへるだろうとそこまで心配してくれているんですよ。僕はこんな国はないと思うんですよ」(永瀬氏の言葉)
あまり知られていないが、1941年12月8日、太平洋戦争開戦のその日マレー半島攻略のためタイ南部に上陸した日本軍はタイ領内を無害通過する予定だったが連絡不徹底や通信機器不具合などからタイ軍と交戦となり、タイ側に犠牲者がでている。そうした過去、経緯がありながらも「敗軍の兵」に暖かい配慮を示したのがタイの人々だった。
■カンチャナブリは「祈りと感謝」の場
映画の冒頭、鉄道建設作業中に死亡した元捕虜約7000人が埋葬されているカンチャナブリの連合軍共同墓地で出会った英国人元捕虜に永瀬氏は「私たちがしたことをおわびします」と切り出す。「謝罪は読んで知っています。それで充分です。日本人で握手できるのはあなただけです」と話す英国人元捕虜と握手し抱擁する。そして戦時中、通訳として立ち会っていた憲兵隊で拷問を受けていた捕虜と戦後に文通を始め、再会を果たし、最後には和解する。
「日本の政府は戦後の処理をあまりにもなおざりにしている。だから、日本の兵隊さんの遺骨でもほっておくような国柄でしょ」「私はこういう遺骨の問題というのは勝ち負けじゃないと思うんだな。日本は負けたことをいいことにして何にもしないんだ。だから結局本当に負けてるんだ」(永瀬氏の言葉)
カンチャナブリのクワイ河鉄橋周辺は戦後、タイによって整備され、泰緬鉄道博物館、第2次世界大戦博物館、JEATH戦争博物館、当時実際に使用された蒸気機関車や車両などが展示されており、歴史を学ぶと同時に連合軍共同墓地、チェンカイ共同墓地、日本軍建立慰霊碑などで犠牲者の冥福を祈る場ともなっている。
今そこには1986年に永瀬氏が建立したタイ式のクワイ河平和寺院が立ち、2006年に永瀬氏を慕う留学生や奨学生が感謝を込めて製作した永瀬氏の銅像も加わり、新たな祈りと感謝の場となっている。
永瀬氏が2011年に93歳で亡くなるまで、一貫して心に抱いてきたのは「贖罪と慰霊」であり、それは元捕虜やタイ人たちとの「和解や恩返し」を通して最後には「祈りと感謝」に昇華したのではないだろうか。
■クワイ河の流れに花と共に
2008年6月の134回目のタイ巡礼で永瀬氏はクワイ河鉄橋の上にかかる虹を初めて目撃し、「素晴らしい、天国への橋じゃ」と感激する。そして翌2009年、長年共に歩んで来た妻 佳子さんとのタイ巡礼が最後の訪問となる。永瀬夫妻の遺骨は遺言に従い、2011年8月にクワイ河鉄橋近くの愛してやまなかったクワイ河に色とりどりの花と共に流された。
ドキュメンタリーの中にも登場するが「なんで(元捕虜に)わびることがあるんだ。わびることはない」(元鉄道大9連隊将校)という考え方、主張、立場の人もいるだろう。そして英国にも「絶対に忘れないし、許しはしないと。死ぬまでそれは変わらないでしょう。敗れた軍隊として我々はもう少し人間的な扱いを受けるべきでした」(元捕虜の英国人)と和解を拒否する人々も存在する。
それぞれの人に個人的な考え、思いがあり、それに基づくそれぞれの戦後はまだ続いている。確かなことは永瀬氏という一人の日本人が人生を自らの信念、使命で貫いたということであり、その一人の日本人の存在がタイの人々の中に今も生き続けていることである。
「日本人でありながら、タイの国と人々を愛してくれたこと、決して忘れません」(散骨前にカンチャナブリで開かれた永瀬氏のお別れの会でのタイ人留学生の言葉)。
若い世代の人に是非足を運んで欲しいドキュメンタリー映画である。
トップ画像:ⓒ大塚智彦
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この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。