『日本解凍法案大綱―同族会社の少数株、買います!』 4章 高野敬夫 その1
牛島信(弁護士)
大木は話が面白くなってきたと感じていた。
高野敬夫は不動産で財産を作った。今は悠々自適といってよい。彼自身は世間の平均の50倍と言ったが、おそらくもっと持っている。どう定義するにせよ、金持ちであることは間違いない。人は自分の財産の高を、たとえ顧問弁護士に対してでも、正直に言いはしない。たいていの人間は少な目に、一部の人間は多めに、それぞれ事実と違うことを言うものだ。
バブルの始まる直前、37歳だった高野は勤めていた一流商社を辞めると土地を買い始めた。1984年のことだ。聞けば、商社に入ったのも個人で金儲けをしてやろう、その勉強には商社が一番いいという動機で決めたことだという。そういえばそんなことを言っていたっけと思ったが、大木もバブルの時代の弁護士として忙しく立ち働いていたのだった。
高野のすごいところは、バブルが絶頂に達した89年にはもう手じまってしまったことだった。
もっとも、そこには或る偶然が作用していた。
にわかに大金をつかんだ高野の女性関係が原因で、商社で知り合った妻と別れることになってしまったのだ。原因になった女性と一緒になりたい一心で、高野は妻からの厖大な財産分与と慰謝料の要求をいとも簡単に呑んだ。土地は、整理してみると150億になった。もともと妻の父親の信用で借りた金から始めたのだ。高野には妻の言いなりになる理由があった。
高野が土地を処分したいと告げると、銀行は『いまお売りになるんですか。なんとももったいないことで』をといちおう言ってはみせたが、あっという間に次ぎの買い手を探してきて、売買を急がせた。貸付がまた増えたと担当者も支店長も大喜びだったのだ。買い手には困らなかった。
手取りが100億だった。30億を妻に渡し、高野はしばらく日本からいなくなった。新しい奥さんと手に手を取って先ずニューヨークへ渡り、パリのプラザ・アテネ、ロンドンのコンノート・ホテル、ニューヨークのセントレジスといった高級ホテルとミシュラン片手にレストランを遊んで回って、日本には戻ってこなかった。
カーレーサーをやっていた友人が、ヨーロッパの上流クラスというのはこういう人たちなのかという人たちをつぎつぎと紹介してくれた。
「どこへ行ってもシャンパンだ。どうして連中にはシャンパンがこれほどのものなのか、不思議な気がしたね。
でも、素晴らしい経験をした。パリのオテル・ドゥ・クリヨンでのことだ。あそこの入り口近くにアンバサドゥールというフレンチ・レストランがある。そこに英子と二人で行ったんだ。いや、前の晩、飛行機の中で風邪をひいてしまったらしくてね、体調が悪かった。今晩は止めようかと言ったら、いつもなら簡単にオーケーしてくれる英子が、『ここはダメ。予約をとってもらうのにこの間のパーティでお会いした若いフランス人のお友達に頼んだのよ。彼、ジャン=ポールっていったかしら。“やっととれたぞ、でもキャンセルなんてするなよって”。私、“日本人はそんな品の悪いことしない”って言ってやったの。だから、今日は無理してでも行って、お願い』と来た。
仕方なしに行ったさ。確か胎牛のグリルかなんかを頼んだっけな。
あ、シャンパンの話だった。
砕いた氷があふれんばかりの大きな桶のなかに何本ものシャンパンが無造作にぶち込んである。そこから好きなのを選べってわけだ。
美味しかったな。名前をたずねたら、91年のテタンジェと教えてくれた。
それまで、シャンパンてのは、結婚式のカッコ付けでなきゃ飛行機に乗ると只で飲ませてくれるオマケくらいにしか思っていなかったんだ。そいつのが、とんでもない思い違いだったんだと身に染みた。人によって人生を賭けるってのもわかる気がした。
ああ、ヨーロッパじゃこんなこともあった。
これは日本人なんだがね。ほら、バブルの紳士と呼ばれた男の一人さ。そいつが、ボーイングから737を買うっていうんで、話を聞かされたんだ。文句たらたらさ。なんでもそのジェット機にサウナを設えてくれと頼んだのにやってくれない。金はいくらでも出すと言ったら、ダメだ、規則だからと来たっていうんだ。
ジェット機に乗ってまでサウナかよ、と思ったけど、ま、友達だからな。適当に合わせておいたけど、そんな時代だった」
大木が離婚の手伝いをした。前の奥さんの要求する目を回すような金額をいとも簡単に高野が承知したから、さして手間はかからなかった。大木への報酬も、どうせ8割は税金だからオマエに払うのは実質2割で済む、といって気前よく払ってくれた。
「大木、お世話になったな、ありがとよ。人間、見切りが大事だ。俺は、なんだかこうしろって誰かが後を押してくれている気がしてる。ありがたいことだ」
そのときの高野の言葉は大木に強い印象を与えた。それにしても見切りが早すぎると言おうとしたが、高野は「交渉好きの弁護士なんかにゃわからない世界がこの世にはあるってことだ」と、頭から取り合おうとしなかった。
そのとおりだった。
バブルが崩壊して、ほんの半年の間に、高野が坪7000万で売った土地が1000万でも買い手がつかなくなったと聞いたとき、
「大した奴だよな、オマエも」
大木は高野の決断をあらためて国際電話越しに誉めた。すると、
「いや、俺の場合は運命だったと言うほかないな。俺が英子に出逢って、惚れて、口説いた。前の女房にはなんとも済まないことになった。すべて俺が悪いんだからな。
だがな、大木。今でも、他にはどうしようもなかったと思っている。俺がやったんじゃない。俺が生まれたときから決まっていたことだとでも言うしかないような、そんな気がした。
卑怯かもしれんが、俺の実感だ。英子にも苦労させた。
あのときにゃ、本当をいや、泣きの涙で土地を手放しだんだ。あんまり悔しいんで誰にも言わなかったけどな。だけど、英子に出逢ったのは俺が決めてしたことじゃないからな。逢ったら、もう一本道が目の前にあって、左足が前に出てたってことだ。残った右足はまだあっちを向いたままだったっていうのにな。
時間がある。おかげで柄にもなく美術館を回って絵を眺めるっていう、新しい人生も拓けたしな。なんせ、飯を食ったらほかにやることがない。ゴルフばかりじゃ飽きちまう」
大木は旅先からなんどか絵葉書をもらっていた。ウィーンに美術史美術館というおもしろい名前の美術館があるということも、高野のおかげで知ったことだった。コレッジョという16世紀の絵描きの名前もそのときに教えられた。送られた絵葉書にコレッジョの『イオ』という作品の写真があって、それが目にとまったのだ。黒い雲に変身したゼウスがイオという若い女性を抱きしめ口づけしようとしていた。一見しただけではわからないが、よく見ると黒雲のなかにゼウスの顔が浮かび上がる。
高野が日本に帰ってからもぶらぶらしていたが、そのうちバブルで極端に値下がりしたビルやゴルフ場を買収したいというので、大木はその手伝いをした。バブル紳士のリターン・マッチだと言われてマスコでも騒がれたものだ。端から見れば、何とも凄いノストラダムスのような奇跡の予知能力を持った男と祭りあげられたのだ。今度はキャピタルゲイン狙いではなく、いくら家賃が入るかだった。高野は大いに成果を上げ、そうやって得た資産の維持管理が高野の今のビジネスということになっている。家賃が年に10億を下らない。
もう働くのは止めにしたと宣言して、本当に止めてしまった。もうずいぶん時間が経つ。
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html