『日本解凍法案大綱』5章 譲渡承認請求 その3
牛島信(弁護士)
1週間後、高野は大木の事務所で川野純代と対面していた。株を買う相談をしたテーブルに大木弁護士を前に二人が並んで座っていた。
大木は微笑むばかりで、自分からは口を開かない。
高野がほんの少し身を乗り出すと、
「今日は大木弁護士にも同席してもらうことにしました」
大木が微笑みを崩さないまま名刺を取り出すと、テーブルの上を滑らせ川野純代に手渡した。
「この男は弁護士ですが、なにも心配しないでください。すぐに面倒な手続きを頼まなくっちゃなりませんので同席してもらったのです。
それに大木弁護士は私の高校時代からの友人でもあります」
高野がそう説明すると、もう一度大木弁護士が二人を等分に見ながら微笑みを作った。
「前回も申しました通り、私は買主候補です。あくまでも候補ということです。おばちゃんが自分の株を私へ売りたい、そうなったら承諾してくれるかと会社にたずねる。
いえ、手続きはここに座っている大木弁護士の事務所の若い先生たちが全部面倒みてくれます。大木弁護士のところには80人からの弁護士がいます」
大木が、川野純代に向かって深くうなずいて見せると、再び静かな微笑に戻った。
高野の声だけが小さなオフィスに響く。
「おばちゃん、会社に株の譲渡を請求します。この会社の株は会社の承認がないと僕に売るわけにいかないんです。もし承認しないのだったら、誰か買ってくれる者を指定してくれ、会社が買うのでもいいという請求です。
そしたら、会社は必ず回答してきます。
自分のところ、つまり会社に売れと言うか、会社の指定する第三者に売れというか。答はどちらでもいいのです。
ノーなら大木弁護士による事務手続きの始まりです。値段がいくらならフェアなのか。最後は裁判所が必ず決めてくれます。裁判官がやってくれるのですから、安心です。
もし、譲渡を承認します、つまり売っていいです、イエスですと答えてくれば、やはり大木弁護士が正式の売買契約にしてくれます。もうお渡し済みの500万円を正式に売却代金として受け取ったことを確認していただけばいい。大木弁護士が書類を作ってくれて、それで終わりです。私が交代して株主になって、会社に経営の改善を求めます」
大木弁護士が苦笑した。
「でも、ほら大木弁護士が難しい顔のまま不思議な微笑を浮かべているでしょう。
大木弁護士の考えているのは、会社が売買をOKするなんてことは先ずあり得ない、ということなんです。譲渡承認を承諾するなんてふつうなら考えられない。会社は見知らぬ第三者が株主になるなんてことは嫌ですからね。特に買い手候補が高野敬夫では、会社も二の足どころか三の足も踏むでしょうね」
「なにせ、バブル紳士として有名だったうえに見事な復活を遂げた男ですからね」
大木が口を開いた。押し黙って高野の説明を聞いていた川野純代が、大木のひと言でクスッと笑ってから、ぶすっとした顔の高野に気づいて表情を引き締めた。もう何と言われたって500万円は返しませんからね、と高野を見つめる目が言っていた。高野は表情を緩めると川野純代に微笑みかけ、話を続けた。
「いいんです。買い手は会社でも第三者でも。
そのときには値決めになります。
それも大木弁護士に任せてもらえば結構です。おばちゃんは大船に乗った気でいてくれればいいです。
会社との間で密室で値段を決めようなんて思っていません。法律にあるとおり、価格は裁判所に決めてもらいます。裁判所が決めてくれる値段なら安心ですからね」
「もう、どうなってもお金はお返しできませんよ」
川野純代の、小さな、しかし断固とした声だった。
「もちろんです、おばちゃん。
売買できるんですから、お渡しした500万円がその代金ということになります。株を売った代金ですから、堂々とお持ちください」
「それでお終いね?」
川野純代がほんの少し不満げな調子で、大木弁護士の顔を見た。
「ええ、株の売買としてはそれなりの価格と税務署も認めざるを得ないでしょうからね」
「え?本当はもっと価値のある株なの?」
「そうかもしれません。でも、買い手次第でもあります」
大木の言葉を高野が引き取った。
「おばちゃん、私は裁判所での価格の最終結果が500万以下でもお金を返してくれなんて申しません。
逆に、裁判所の結果が500万円よりも高ければ差額はおばちゃんのものです。
弁護士費用と社団の手数料、それに500万円を差し引いて、すべておばちゃんにお返しします」
川野純代が口を開いた。
「でも、それじゃあんまり。申し訳なくって。
初めにお金を頂いているんですから、後はどうなっても返してなんてくださらなくていいです。
差額を返すだなんて、それはそれで有難いお話。でも、いいんです。
裁判所だかなんだか私には難しいことはちっとも分かりませんけど、誰かがもっと高い値段を出したら、差額のいくらかが私に戻ってくるなんて、変。値段は売る人間と買う人間だけの問題です。私と敬夫ちゃん。初めっから500万円に決まっています。あの会社の株は値段がそのくらいって決まっているんですから。
弁護士さんのお金はいいんです。当たり前ですもの。弁護士さんに頼めばお金がかかるのは分かってます。でも、それは敬夫ちゃんが出してくれるのよね。
敬夫ちゃんに差し上げたものが実はもっと高かったからって、もう全額お金をいただいている私にいくらか返して下さるのはやっぱり変。お受け取りするわけにはまいりません。
私でもそのくらいはわきまえているつもりです。一度お売りしたらそれでおしまい。株なんですもの。その株を敬夫ちゃんが他の人にお高くお売りになったら、それは敬夫ちゃんの才覚っていうものでしょう。私は私で納得してお売りしたんですもの、私はそれ以上1円だっていただく立場じゃないわ」
どうやら、川野純代は金を返すことだけを心配しているようだった。だから、自分は500万の取引ですべて終わっている、と強調しないではおれないのだ。
「わかりました。
でも、裁判所がもっと高いと言ったら、もう一度私の話をきいてくださいね。
おばちゃん、よくわからないかもしれないけど、私はおばちゃんにフェアでいたいんです」
「だから、最初にお金をいただいたらそれでお終い。それがフェアっていうものでしょ」
「そこが違うんだなあ。
ひとつ大木弁護士にご説明ねがいましょう。それがいいと思う」
大木の顔に三たび微笑みが浮かんだ。
「同族会社の株というのは不可思議なものです。
売り手と買い手の関係で値段が違ってくる。
他人同士なら安くても税務署は文句を言いません。でも、同族、つまり親戚の間の売買で安い値段にすると税務署が承知しません。
そりゃあそうですよね。親が子に会社の株を安く譲ったって世の中で通るはずもないことはお分かりのとおりです。
つまり、会社の経営を支配している人かどうかです。経営していなければ、株を持っていても配当くらいしか意味はありません。その配当だっていつまで続くかわかりはしません。だから買い手だってつかない」
「センセ、私難しいことわかりませんけど、この株は一株500円でいつも買ったり売ったりされているんです。私はその値段で売れればそれで結構です」
「それはそうですね。
でもね、会社に資産があると、表面は利益が上がっていなくても、会社が解散するとなると株の割合で株主に財産を分けるわけですからね」
「ここ、解散なんかしませんよ、センセ」
「そのとおりですね。
でも、もし解散したら一株500円よりもっともっとたくさんの金額が株主に配分されますよね。それはわかっていただけますか?」
「そんな意味もないこと。弁護士さんというのはまあ理屈がお好きなのね」
大木は苦笑した。墨田のおばちゃんの言っていることは、目の前の事実としては正しいと認めざるを得ない。墨田鉄工所が解散することはあり得ないのだ。
「でも、裁判所で会社の価値を判断するときには、解散したらいくらかという点も加味して算出するものなのです」
「変なお話ね」
「いや、そうでもありませんよ。
会社というのは不思議なもので、過半数の株を握ると会社全体が支配できます」
「ええ、ええ、過半数を握れば、ね。でも私のは7%ぽっきり」
「でも、7%と言っても、裁判所が決める値段には会社がどのくらい儲けているのかとか資産をどのくらい持っているのかも関係してくるのです」
「私にはよくわかりませんけど、裁判所がおっしゃることでしたら、そうなんでしょうねえ」
「非訟事件、訟えに非ずと書いて非訟と読みます。
ふつうの裁判と違って、勝ち負けではありません。裁判所が自らいくらが適切かを決めてくれるのです」
「まあまあ、こんなおばあちゃんを捉まえて裁判のお話をされましても。
弁護士さん、とにかくよろしくおねがいしますよ」
墨田のおばちゃんと大木弁護士のミーティングが終わると、大木の事務所の弁護士たちが作業を開始した。
墨田のおばちゃんの株について、譲り渡し人である墨田のおばちゃんの代理人弁護士からの墨田鉄工所への通知書だった。大木弁護士とパートナーの辻田美和子弁護士の名前を筆頭に、15人の弁護士の名前が記載された文書が作成された。
「弊職ら依頼者であります川野純代は、御社の株720株を碑文谷土地建物株式会社へ譲渡したいので、承認してほしい。承認しないのであれば会社自身が買い取るかまたは第三者の買い手を指定されたい」という内容の配達証明郵便だった。
返事はすぐに来た。なにしろ、会社法の規定で2週間以上放置すれば売り主の申し入れ通りになってしまうのだ。法律の規定で、承諾してしまったことにされてしまう。会社には急いでアクションを取る理由があった。
会社が自分で買うこともできる。しかし、そうなると株主総会をしなくてはならない。他の少数株主が墨田のおばちゃんから譲渡承認のあったことを知ることになる。それなら自分も譲渡承認請求をしよう、と思う株主が出て来かねない。だから、たいていはオーナーである社長自身が個人として譲り受け人になるか、信頼できる第三者に頼むことになる。社長自身が譲り受け人になれば、同族株主ということになるから値段が高くなる。譲り受け目的のために会社を新しくつくっても第三者ということにはなるが、実質は誰の会社かが問題になる。結局は社長か会社そのものという実態のことが多い。その場合はもちろん同族だから高い値段がつく。
墨田鉄工所からの回答が来たと言われて、高野は早速大木の事務所に飛んで行った。
大木がコピーを見ながら、
「やっぱりな。川野宗平ってのは墨田鉄工所の社長の名前だよな。仕方がないから買ってくださるってわけだ。買い手に京島プロパティなる会社を指定してきた。できたばかりの会社だ。代表者が木野功とある。なにものか知っているか?」
「知らないな。聞いたこともない」
「代理人の弁護士さんの大飛騨譲ってのは、若い人だな。
こんな作ったばかりの会社が、墨田鉄工所の株を買う理由をどう説明するつもりかな。
供託しなくちゃならない簿価純資産額だけでも1億にはなる。だけど、土地は厖大な含みを抱えているからな。そんなものじゃ済まない」
譲渡を承認しない場合には、会社の簿価純資産に譲渡対象の株の割合をかけた金額を供託しなくてはならない。法律にそう書いてある。
「で?」
高野がたずねると大木が、
「先ずは価格交渉になる。どうせ相手がこちらの言い値を飲む気づかいはないから、裁判てことだな。非訟事件だ。ま、3か月か6か月か。たいていは1年あれば終わる」
大木の答に、隣に座った辻田弁護士がうなずいた。
高野は、待ち遠しくてならないという浮き浮きした声で、
「非訟事件てのは、ふつうの裁判よりずっと早く終わるんだよな」
「ケース・バイ・ケースだ。裁判所が決める」
「川野宗平って奴だ。義理の甥だ。墨田のおばちゃんが何回頭を下げて頼んでも知らん顔をしていた。そいつが『私に買わせてください』と来たか。こいつは愉快だ。
(第5章了。次回から第6章社団法人 最初から読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html