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.国際  投稿日:2017/2/27

金正男暗殺、「アイシャ」とは何者?


大塚智彦(Pan Asia News 記者)

「大塚智彦の東南アジア万華鏡」

【まとめ】

・アイシャ容疑者「同情論一辺倒」報道に変化

・マレーシアはインドネシア、ベトナム大使館の容疑者面会許可

・インドネシアはマレーシアと対北朝鮮で共同歩調へ

 

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄にあたる金正男氏が2月13日にマレーシアのクアラルンプール国際空港で暗殺された事件に関するインドネシア国内の報道に変化の兆しが見えてきた。

実行犯の一人としてマレーシア警察に逮捕されているインドネシア国籍の女性、シティ・アイシャ容疑者(25)を巡るインドネシア国内の報道は、事件発生直後の「事実関係の報道」からアイシャ容疑者の存在が明らかになったことによる「国際的な陰謀の犠牲者、アイシャを救え」という同情論が大勢をしめていた。

ところがその後捜査の進展に伴う様々な報道、情報が加味されるに従い「アイシャとは何者なのか」「アイシャは犠牲者か工作員か」「アイシャと司法」などというタイトルの報道特別番組がインドネシアの民放テレビ局で相次いで放送され、当初の「同情論一辺倒」から冷静に事態を分析しようとする姿勢に変化してきた。

■大使館員との面会が実現

インドネシアのアンドレアノ・アーウィン駐マレーシア大使館副大使は25日、マレーシア警察施設内でアイシャ容疑者と約30分間にわたって面会した。事件後アイシャ容疑者が捜査関係者以外と会うのは初めてだった。大使館職員によるとアイシャ容疑者はこの面会で

①400マレーシアリンギット(約1万円)を受け取り、いたずら番組への出演だと思っていた

②金正男氏の顔に直接塗り付けた液体はベビーオイルだと思っていた

③テレビ出演を依頼されたのは日本人か韓国人だった

④ベトナム人のドアン・ティ・フォン容疑者(29)のことはあまり知らない

⑤健康状態は良好である

などと話したという。

同じ25日にベトナム大使館関係者もフォン容疑者と直接面会。パスポート名義の本人であることを確認したうえで、ベトナム北部ナムディン省にすむ父親にその旨を伝えた。現地からの報道によると父親は「ベトナム外務省から連絡があり娘であることはわかったが、何があったのか今は事情が全く分からない。娘の健康には問題がないことだけはわかった」と話しているという。父親が最後にフォン容疑者にあったのは今年1月の帰省時で、その時は金に困っているようだったとしている。

ベトナム大使館関係者との面会でフォン容疑者もアイシャ容疑者と同じように「コメディのようなビデオ出演だと思っていた」と殺害の意図がなく騙された結果であることを強調したという。

■対北朝鮮の今後を見据えるマレーシア

マレーシア政府は当初、2人の女性実行犯容疑者とインドネシア、ベトナム大使館関係者の面会を強く拒否していた。フィリピンで開催中の東南アジア諸国連合(ASEAN)外相による会議に出席していたインドネシア、ベトナムの両外相がマレーシアのアニファ外相に対して国際法上の権利として認められている「容疑者への領事の面接」を要請した。しかしアニファ外相は「国内法では捜査中の容疑者には捜査関係者しか面会できない」として拒絶していたのだ。

それが2月25日になって急に両容疑者と両国大使館関係者の面会がマレーシア当局によって許可された。こうしたマレーシア政府の姿勢変化の背景には、今後予想される北朝鮮との間で

①北朝鮮に帰国したとされる容疑者の身柄引き渡し交渉

②事件への北朝鮮大使館員の関与

③暗殺に使用されたとされるVXガスに関する捜査

④金正男氏の検視、遺体引き渡し

などの駆け引きの場面で北朝鮮に対し「国際法の順守、優先」を求める場合を考慮に入れた結果とみられている。

■インドネシア大統領も支援を表明

インドネシアのジョコ・ウィドド大統領は2月23日、アイシャ容疑者について「私たちは常に(アイシャ容疑者に)寄り添っている」と述べてインドネシア国民として可能な限りの支援を惜しまない姿勢を示した。

2月17日にユスフ・カラ副大統領が「アイシャ容疑者はある意味国際的陰謀の犠牲者だ」と発言し、国民のアイシャ容疑者への同情論を一気に高めたような不用意な発言はジョコ大統領のコメントには一切なく、弁護士や通訳の派遣、大使館員の面会などを通じて行うあくまで「可能な限りの自国民の保護」を表明するに止まった。こうしたジョコ大統領の発言は、カラ副大統領の同情論に一定の歯止めをかける役割を果たし、国民に冷静さを呼びかける狙いもあったとみられている。

 ■対北朝鮮で共同歩調目指す

インドネシアの民放「ブリタ・サトゥ」は2月23日朝の特別番組「アイシャは犠牲者か工作員か」の中でこれまでの事実関係、情報を専門家の分析を交えながら伝えた。そして番組後半では視聴者からの「犠牲者である」「結果として工作員の役割を果たした」「知らなかったとはいえ、人を殺害したことは事実」などのアイシャ容疑者に対する様々な意見を放映した。

このようにインドネシア現地での報道姿勢が微妙に変化してきた背景には、今回の暗殺事件を通して北朝鮮という国の「極めて恐ろしい実態」をマレーシア政府、捜査当局が改めて浮き彫りにし、その犯罪行為を白日の下に晒そうとしている努力への配慮があるという。

「インドネシアとしてもマレーシアと対北朝鮮で共同歩調をとる狙いがあるのではないか。それにはアイシャ容疑者を犠牲者だ、救えと一方的に同情するより、捜査、司法の判断の行方を見極めることが懸命と判断したのだろう」(インドネシア現地紙記者)との見方が有力だ。

果たしてアイシャ容疑者とは「一体何者なのか」その答えはまだ見つかっていない。


この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト

1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。


 

大塚智彦

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